第一章・悪魔の花婿
by Nina(1999.3.20)
それは、桜が咲いている春の頃だった。
千石大学の旧校舎と新校舎の交界には、桜道と呼ばれている散歩道がある。ソメイヨシノの木が両側に植え、開学式の頃から二週間が花見の見頃で、淡いピンクの花吹雪がこの大学の春の名物である。食堂も生協も大学会館も新校舎に移されたため、普段あまり旧校舎にいかない学生でも、この間は頻繁に足を向ける。
新しい校舎のほうが広いし、設備が整っていて、白い壁と統一されて、洋風の建物が人気をよんでいるが、旧校舎の方は千石大学の長い歴史に相応しい厚重さが色濃く残している。特に開創当時から建っていた純和風の体育館はこの辺りの目印ともいえる。
新しい会館が建てたから、ほとんどのサークルは新校舎に移転してしまったのだが、尚旧校舎に根強くて居づいているのは、柔道、弓道、剣道、など古い伝統を持つ部である。特に剣道部は体育会系が有名な千石大学の中でももっとも強さを誇って、全国大会の優勝常連である。
伊達征士は、この春から、千石大学の学生になった。新会館の入学式に新入生代表として出席してる征士はその日の内に、忽ち有名人になってしまったのである。
すらりとした長身。純日本の名前からには想像できないが、鮮やかな金髪に藤色の瞳。一目見れば一生忘れられないほど強烈な存在感。この日の会館に出席した人達は、まず凛とした姿勢と声に惚れ惚れしたであろう。さらに前列にいる人はその鮮烈な美貌に魅了されてしまう。
だが、入学式の後、すぐに旧校舎へ向かったこともあって、征士に声をかけることができる人は誰一人いなかった。
征士自身は無自覚のままだが、何しろ、そういうことは度々あったので、何時の間にか対応するコツも分かってしまった。
小学の時はまだいい。中学に上がったから、周りの視線がうっとうしかった。高校の入学式の時は始めて、来なければよかったかも、という征士らしからぬ思いにとられた。何かにつけて声をかけてきた人、どうでもいいことを尋ねてきて人、なんとなく後ろに付けてきた人。つい征士は睨んで返ってしまった。
記憶のはじめから、剣道をやらされていたせいか、いざという時の征士の目差しは鋭かった。普段は柔らかい藤色だが、対戦している場合だけ鮮麗な紫に変る。道場で面をかけていても手合わせしている相手の中でも、その目差しに耐える人が少ない。祖父は相手が相応の鍛練を積んでいたら、征士の目光にはくじけないはずだと言って、征士に、そういう末節のことに気をかけるな、と教育されてきた。
しかし、周り全ての人にはそういった鍛練が積んでいる方がすくない。一々恐がらせて(と征士は思っている)も仕方がない。それに、そういう目光を使わずにも、何故か初めて会った相手は大体一瞬ぼっとしているのである。その隙に自分から、さっさと退散すればいい。と、今日もこうして実行してしまった征士である。
千石大学に入ったのは、半分その名高き剣道部に入部したい思いがあったから、征士は入学式の後、周りがぼっとしている間(笑)さっさと旧校舎へ向かった。
一瞬、ソメイヨシノの花びらは風の中に舞った。
桜道の真ん中に佇んでいる征士は、我を忘れて微笑んだ。妙な表現だが、小さい時から、何故かよく植物から好かれている気がして来た。自分が居る時は、どの花でも、もっとも美しい姿を見せてくれている。そして、その一瞬だけ、自然に融けて、何も言えられないほど気持ちがよくなる。
千石大学の名物のはずの桜道は、なぜかこの時だけは征士一人になった。桜と征士が作り上げた夢幻めいた雰囲気に、誰もかもが圧倒されるのであった。
突然、征士は振り向いた。鋭い目付きは、桜林の中に一点に集中する。
何かがいる。
───誰かがいる。
「征士様!」
その沈静を打ち破ったのは一人の少女の声である。いつの間にかできていた人垣を何気なく通して、征士の側に来ているのは、幼さと気高さが混ぜている不思議な雰囲気を持つ、最上級の日本人形を思わせる少女。
「何だ。迦遊羅か。学校はどうした。」
幼なじみに対して、砕けた言葉遣いとなった征士の台詞は、かなり素気無いものだった。征士より二つ下の迦遊羅は今日、高校二年の開学式があるはずだった。
「もう終わったのでございます。征士様、今日は、一緒に帰りましょう。」
征士の腕を取って自分の組んで、迦遊羅は周りの人に一瞥し、そうすると、ざわめきは一瞬だけ、止った。征士自身は自覚がなくても、迦遊羅には十分状況が分かるようである。
「ああ。すぐに入部を済ませるから。」
二度旧体育館へ向かった征士は、先の一瞬の違和感を思い出せなくなった。
桜と見劣らぬ容姿の二人に見惚れて、桜道がいつもの賑やかさに戻ったのは、またすこし後のことだった。
そして、この日の桜の中の征士は、後々まで千石大学の語り草となった。
「征士です。ただいま戻りました。」
「入れ」
返答を待って、襖に向かって、廊下で正座した征士は襖を開け、部屋に入った。
この部屋の主は、征士の祖父だった。70歳に越えてからは、道場の管理を一人娘に譲り、道場よりもこの静室にいる方が多くなった。
家に帰る一番先に、この部屋に来て、祖父に挨拶をするのは、征士の長年の習慣だった。
結婚が早いのにも関わらず、征士の母でもある彼の娘が生まれるのは、かなり遅くて、伊達家の跡継ぎを望熱望した征士の祖父であっても、そろそろ断念した時だった。娘は可愛がってきたが、彼の自分に継ぐ息子がないという失望は、誰にも明らかだった。
それゆえに、征士が生まれた時の、彼の気持ちは簡単に思い知れた。征士を「征士」だと命名した時、誰も反対しなかったのはそのせいだった。例え反対しても、征士の祖父は、簡単に譲らないというのも、また真実ではあるが。
伊達征士。その名は、彼が、長い間に、ずっと伊達家の生まれて来るはずである跡継ぎに用意したものだろう、と容易に想像できる。
産後にかなり体が弱かったこともあって、征士を自分の父に預って、征士の母は、療養も兼って伊達家の養子である夫と伴って田舎に帰った。征士は、こうして、祖父の元で成長した。伊達家の跡継ぎが受けるべくの教育を受け、厳しく、また古風に、訓示されて。人形遊びより、竹刀をおもちゃにした。征士は、征士の母が戻ったまで、すでに、後の性格がほぼ完成されたのだろうと思われる。
まだ五歳であるはずの征士が、正座して頭を下げて迎えられた時、流石の征士の母も仰天した。征士の将来を心配して、彼女はできる限り、征士を普通の生活を戻せるように計ったが。
しかし、征士の祖父は征士を自分から離れるのを断固として拒絶したのと、この時、すでに剣道に興味を覚えて、祖父の元に学びたいという征士は、容易く、彼女の希望を沿わなかった。
祖父と母の協議で、征士の教養は折衷する形となった。征士は、剣の練習など、祖父と共にいる時は、祖父から教えられた振る舞いをし、母といる時は、母の教養を受けるのである。
それから13年の間、征士は、、祖父と母との狭間に、祖父の影響も母の影響も強く受けた。
祖父の血を引いているためか、厳しい、武士であるべき教育を受けたせいか、征士は若くして、剣道の天才を現れた。剣の話題になると、祖父と孫は二人とも、周りが見えなくなるほど熱中して、話に没頭してしまった。それゆえ、祖孫二人きりでいる時は、母子よりも多くなった征士は、母よりも、祖父に懐いた。時には、道場で剣を励む、時には、碁を交わす、時には、祖父から古の昔語りを聞き、征士は、日常でも、古風の振る舞いが自然にするようになった。言葉使いも、丁寧語を使う時はともかく、何故か古い言い回しの方が好んでいる。
15の時に、伊達家の伝統を沿って、成人式をした征士は、かなりの自由を許された。それに伴って、征士は、道場に入り浸りの生活を始まった。母を尊って習い事を続けているが、あまり熱心ではなかったのは、誰の目にも明らかだった。
今となって、18の征士は、祖父が望んだ通り、(そして、周りの人が仰天するほど、)凛とした若者に成長した。
征士の母にも、征士しか子を儲けなかったため、未来、この伊達家を継ぐのは征士だということは予想された。そして、伊達家の跡継ぎとなるために、征士の婚姻は、義務つけられた。祖父は征士の伴侶に苦心したが、彼の心の中では、自慢の孫に相応しい人があまりいなくて、征士の相手はなかなか決まらなかった。
伊達家の格式と伝統、征士の剣における才能と人離れしているとも言える美貌。かなりの数の後選者が上がっているにも関わらず、征士の祖父の眼鏡に叶って、彼女の夫となるべき人物はまだ現っていなかった。
「まったく、よもや、ここまで識格がでているとは。」
トウマは、妙に感心した。
伊達征士。れっきとした「女性」であるにも関わらず、男の名前が付いているのは、こっちでは、征士の祖父の影響ということになってるらしい。が、本当は、「セイジ」という真名を持つ彼の識格のせいだった。生粋の日本人である親を持っていてにも関わらず、日本人離れした容姿を持つことになったのも、セイジの容貌をそのまま受け継いだせいだった。それなのに、セイジの識格のために、親戚はじめ、周りの人でも違和感を感じなかった。
身長は、流石にセイジであった時よりは低いが、それほどの差でもない。普通の日本男性よりは高いのである。つまり、これまでも、元の識格に影響されたに違いない。
さらに征士の好みや趣味は、セイジが、もし、このような環境で育ったのであれば、このようになるのだろうという風情もある。
性格といったら、元との差こそあれ、セイジに違いないと思わせる所々がトウマをじれたい気分をさせた。
桜林の中から人間となったセイジを拝めて来たトウマとしては、しみじみの感想であった。「此の世」の桜林の中に現身してなかったにも関わらず、征士には、ちゃんと感応したらしく、一瞬だけではあったが、昔と同じ鋭い目差しを、何のずれもなく、真っ直ぐ自分の方向へくれたりもした。
星を通り道を通ったのは、浄化された魂、という決まりがあったから。もし、識格を持つ魂が通ったらどうなるだろうか、前例がないから、セイジのケースがある前では、何も言えなかった。時には、完全な浄化してなかった魂が、次の人生に、前世の記憶に干擾される例もあったが、それとこれとでは、受ける影響の差の大きさが桁違いである。
それに、セイジの識格は、普通の人間のとは格が違う。光の子であって、「セイジ」であって、光の精霊を従わせている彼としては。
あれでもか、これでもか、と覚えのあることが数知れずなのに、唯一つ、元との大きな違いは、彼が、女性になったことだった。
「男左女右」という理に縛られた「星の通り道」。いくらセイジであっても逆らえることがかなわなかった。
「まったく、こんなことになったのは、もう間抜けだとしか言えないぞ」
征士の全てがセイジと同じであれば、今すぐでも目覚めるはずだった。なのに、唯一つのすれ違いが、その思惑の全てを無駄にした。今は、トウマは、どこから手を付けばいいのか、まったく分からないのである。
「そんな〜まぬけだなんて〜、セイジ様のせいじゃないのに〜」
自分の未来の暗さ(つまり、予想した未来の手間の掛かり様)にドリームしたトウマは、突然の声に驚かされた。
「なんで、お前が付いてくるんだよ!!!」
「だって私のせいだったんだもん。」
その声の持ち主の正体は、セイジの手下(笑)の例の光の精霊である。
「俺はお前の面倒まで見るつもりはないぞ。」
と、はいっても、今現在、光の精霊の主であるセイジが不在である状況からして、何かあったら、やはり自分の責任になるだろうという予想は、トウマにもあった。このようなことに、ナスティがなんとかしてくれるという期待は、抱えるだけ無駄だろうということも、分かりきっている。
「そんな〜〜〜トウマ様〜〜」
体の大きさはともかく、声だけは一人前である光の精霊。更に生まればかり躾も受けていない上に騒々しい(とトウマが考えている)とくれば、自分の手足まどいになるだけだろう。
「さっさと帰れよ」
トウマが無情に言い放った。
「セイジ様が帰るまで帰りません〜」
わーと泣き出した彼女の声は、さらに高くなった。
「ああーしーしー、ここは、一応、人間界だぞ。お前のようなもんが普通の人間に見られたら、怪しく思われるだろう。もっと静かにせんか」
「だって、だって〜トウマ様〜」
泣いてる女性程、理性から遠いものはないのである。そのまままだ泣き出す光の精霊を見て、思わず舌打ちしたトウマである。
「わかーた。わかーた。」
トウマとしては、かなりあっさりに折れた。男への容赦なさに比べれば、女には甘い。それが、彼が遊び人と呼ばれる故かどうかは定かではないが。
「こっちにいる時は、蛍の真似でもしてろーよな」
......この季節に蛍はないのではあるが、いざという時は、その時に考えればいいという思考回路は、きっと、トウマの識格の一部に違いない。
「御婚約、なさいますの?征士様」
庭を見渡す茶室の中に、静かにお茶を点ていた迦遊羅は、突然言い出した。
「祖父は、そのつもりだろうが」
別に特に関心していない風に征士は答えた。祖父が自分の縁談を捜しているというのは、知っているが、何月も過ぎたのに、特に何も言ってこないと来れば、無関心にもなろうというものだった。なんだかんだといっても、結局自分には甘い祖父は、まだ自分を手放したくないだろう。
「伊達のお爺様も無駄なことをなさいます。征士様のお嫁さんになるのは、この迦遊羅です、とずっと決めておりましたのに!」
「...迦遊羅も跡継ぎだから、無理だと思うが」
......そういう問題ではないと思うが。
「お父様だって分かって下さいましたよ。征士様と釣り合うできるのは、このわたくしだけです。」
迦遊羅は力説しました。
征士は、別に何も言わない、迦遊羅からお茶を受け取った。...二人ともあまり細かいことには気にしてない質だが、周りから見れば完璧な夫と妻の絵である。小さい時から今まで、何度も何度も迦遊羅と同じ話題を繰り返してきた征士としては、いい加減このような会話に慣れただけだったのだが。
幼なじみとしても、気の知れた相手としても、迦遊羅は申し分けないのだが、それ以上の存在になろうとは思わない征士である。
迦遊羅も多分、自分と同じ、普通の女の子から離れている存在だろう。精巧な日本人形のような外見に、黙ってさえおれば大和撫子のような振る舞い。
特に武道を嗜めるというわけでもないのだが。その実態は、気が強くて、時折手が負えなくなる。近所の柄悪そうな男の子に喧嘩を売ったり、迦遊羅の家にいるあの高い松の木を登ったり、して。多分幼き時からずっと学んでいる舞のせいでしょうが、身の軽い迦遊羅は、それの全てを自力で切り抜けてきたから、一筋にはいけなくなる。
気が強くて、気性が高くて、一人子でもあるせいかな、迦遊羅は、周りの人、特に男性を見下すきらいがある。
その迦遊羅が何故、小さい時から、自分に懐いている。懐かれて悪い気はしないが、それでいいのか、と時時、細かいことに気にしない征士でさえも、迦遊羅の未来を心配したくなった。
確かに、小さい時から、迦遊羅の父親、迦雄須は、諦めるように自分に「迦遊羅を頼む」と言ってきたんだが、それは、自分以外友達を作ろうとしない迦遊羅のためだった、とずっと、征士は信じてきた。
父親として、迦雄須もやはり、一人娘のことを心配しているのであろう、と。
それは、本当に、「迦遊羅を征士のお嫁にやってもいい」、というニュアンスも含めているということを知った時、さすがの征士も眩暈を覚えたのだった。さらに、そういうことを言い出す迦雄須の理由は、「どうせ、私のいうことを聞くはずがない」といういい加減なものに来れば、征士も今までの迦雄須への観感を仕方なく変えさせた。
あのような父親がいるから、今の迦遊羅がいる、ということだろう。
「もう一献、いかがでしょうか」
甲斐甲斐しくて、迦遊羅は言った。優雅な振る舞い、完璧な作法は惚れ惚れなものである。
「ああ。」
素気無く征士は答えたが、その素気無さまでも、凛として思わず見蕩れるようなかっこよさだった。
......征士は気づいてないのだが、もう一つの理由は、征士のこのような思考回路があったから、今の迦遊羅がいる、ということでもあった。
あとから思えば、この日こそ、波瀾万丈とも言える伊達征士の一生の、まさに運命の日であった。(ちなみに、波瀾万丈というのは、周りからの評価であって、征士自身の標準からではない。)
早朝から征士に、この日が何となくいつもと違うように思えたのは、虫の知らせというか、征士特有の勘の良さゆえか。...どちらにしても、本人にはあまり歓迎できない状態に違いない。
そして、釈然できないでいながら、征士はいつも通り、大学の講義に出かけた。
講義がいつの間にか無事のままに終わって、家にも無事に帰って、はて、朝からの妙な感じは単なる勘違いだったかと思いはじめた征士であったが、家門をくぐって、「それ」は小さくなる所か、さらに大きくなった。
これは家と関連あるのだな、と漠然に征士は思ってたときに、祖父に静室に呼ばれた。
「征士です。ただ今戻りました。」
いつもの挨拶をしてるのに、これほど速い心の動悸はただ事ではない。
入れ、と祖父からの招呼を待つ、ふすまを開けた。目に入ったのは、珍しく、一目で分かるほど、機嫌がいい祖父。にも関わらず、征士が注目したのは、もう一人の人物であった。あれこそが、異常な動悸の原因であろうということを、征士は悟った。
座っているにも関わらず、まれにいる長身と分かる男。祖父の手前で、真面目な顔をしているはずなのに、なぜか、征士には目が笑っているように見えて。
....なんとなく、むっとした。
和風な伊達家の静室とおよそ似合わない洋風の深色のシャツとズボン。にもかかわらず、妙にびっしり決まっていて、回りと調和している男。
「紹介しよう。そなたの、許婚である、羽柴、当麻、殿だ。」
なっっ!
思わず我を忘れて立って、征士は叫んだ。
「羽柴、だと!馬鹿な!...」
「何で?」
あの男からの第一声は、何故かは征士にだけ、はっきり分かる、からかいの声だった。
なんで、だと!!!だっておまえはっ
「どうしたのじゃ?羽柴殿の前、無礼であろう」
祖父に叱れて、「えっ」と我に返った征士は茫然した。
「羽柴殿を知っていたのか?」
───知らなかった。
「...いいえ」
自分は何故怒ったのであろう、まったく初めて会った人に?覚えなどなかった。もの忘れが酷いでもない自分は、これほど目立つ男と、一度でも会えば、忘れるはずがなかった。
「座ったらどうじゃ」
「...はっ」
二度正座となった征士は黙り込んだ。
「あの由緒ある羽柴家の一人息子じゃ。普通なら跡取りであろうが...」
あの羽柴家といえば、征士にも心当たりがある。由緒ある旧家のわりに、自由な家風。代々人材倍出で有名である。いまの当主も確かに、高名な科学者夫婦であった。
......たしかに、縁組みとして、祖父にとってはこの上ないと言える名門かもしれないが。羽柴家に、一人息子が居るというのは、まったく初耳である。
「いや、両親は、俺が羽柴家を継ぐため、無理してこの良縁を放棄せよ、と言い出すような人ではない。ご心配なさらずに」
.......このような横柄な態度と、不条理としか言えない理由付け。なのに、礼儀にうるさいはずの祖父はまるでそれに気づかず、いかにも満足そうに「うむ」とだけ肯いたっきり。
パサーと突然障子は開かれた。そこに立ち尽しているのは迦遊羅だった。いつもの弁えた振る舞いはどこへやら、征士の祖父にも挨拶しなかった。おそらく征士の帰宅を知って、捜しに来た時に祖父の言葉を聞いて、衝撃を受けたからであろう。
「征士様が婚約なさるなんて...この迦遊羅、絶対認めません!」
いうだけ云って、迦遊羅は背を翻って飛び出した。
「迦遊羅っ」
幼なじみの後を追おうとする征士だが、祖父の一言に阻止された。
「迦雄須の跡取りも困ったものじゃ。今はほっといたほうがあれの為じゃろう。それよりも、羽柴殿をもてなしするように。」
「......」
征士は無言だった。何故か、今日の全てが狂っているようだ。
征士からの返事がない事を是と取った祖父は、満足そうに退場した。
嵐の後の静室に残ったのは、征士と、そして、諸悪の元凶のあの男の二人っきりだった。
...........余談ではあるが、迦遊羅が飛び出したと同時に、静室の外で、「ト、トウマ、さま〜〜〜セ、セイジさま〜っっっ」と悲鳴を上がって気絶した女の子は、一人、いた。迦遊羅の啖呵のせいで、彼女の存在は、トウマ以外にはまったく気づかれていなかったのは、この際、果たして幸せなのか不幸なのか......
静室に残したのは二人だけ。
なのに、これほど物騒な気分になったのはなぜ?
征士は実に不機嫌そうに、この自分の前で不審という双文字を背負っている男を睨んでいる。
...その男は、といえば、二人っきりになった矢先に座位を崩して、右手で顎を支持して、床に凭れる姿勢になった。目上の人が離れてすぐに本性が出てしまった、といったところだな。なにより、あの表情は......
楽しんでいる?
────いい度胸だ。
怒るという域を越えてむしろ感心してしまった。自分のこの眼光の重圧に耐える奴はそうそういない。羽柴は、武道を極める者にしては、動作に無駄が多い。単に無神経という線もあるが、多分違うだろう、と、何故か征士は確信している。
.....ということは、天生の肝の強い奴か。
時間が経つのに連れて、征士の表情がやわらげてゆく。もっとも、本人にはまったく自覚がないが。
* * *
トウマは実に楽しんでいる。
一応、セイジとコンタクトできたし、ついでに、セイジが覚醒するまで、セイジの身の確保もできたわけである。この際、手段の適当かどうかは問わずにしておくが。
それにしても、こんなにじっくりと、奴を眺めるのは、もしかしたら、初めてではないだろうか。造りの良さは昔から知っていたが、セイジは自分の顔が見られるのがあんまり好きじゃない。むやみに眺めたら、幼なじみの気安さで、遠慮なく手を出してくれたし。
......おや?
トウマは、この部屋の雰囲気が段々変わってゆくのに気をついた。
そう。この気を許した表情は...
────まるでセイジのようだ。
一瞬だけ昔通りに戻した錯覚に陥れたトウマは思わず呼んでしまった。
セイジ...と。
* * *
呼ばれるのは自分だったろう。ニュエンスは微妙に違っているが。
羽柴は、いったい、何者なんだ...。征士は一瞬、懐かしそうな、形容し難い気持ちに陥れた。
が、誰であろうと、初対面の奴に、呼び捨てになどされる筋合いはない。許婚だろうかなんだろうか、自分が嫌であれば、なんだかんだと言って自分に甘い祖父に無理矢理嫁がせることはないだろう、と征士は据える。
意を決して、征士は立ち上がった。取りあえず、当面の問題を解決しないと。
「来い、羽柴」
* * *
のこのこついてくる男を、家族専用の小さい道場に導いた。
敷地にもう一つ大きな道場があるが、そっちは師範代や生徒達がかわるがわる出入りしているため、こっちのほうが都合がいい。
手当たりに近くに置いた竹刀を投げ、征士は手早く自分のなりを整った。
「呼び捨てをしたければ、一度手を合わせてもらおう」
下界の竹刀なるものを手に持ちながら、必要のあるや否やにも関わらず収集して研究する癖がついてしまったトウマとしては珍しく、物珍しさに陥るより、嫌な予感を感じた。覚醒してはいないとはいえ、もとはセイジなゆえ...性格も多分変わって...ないな。
やはりと、一つ大きな溜息を押さえながら、手の中の竹刀を見たりして。
「俺、未経験者だけど。」
「素人でもないだろう。」
何故か征士は言い切った。
これは確信という名の一種の信頼だということを、征士は気づいているのだろうか。
「最悪の状況でも骨の一つや二つといったところだ。それくらいの腕は持っている。...なんだ。怖じ気づいたなら、やめようか」
無造作に物騒なことを言い放って、単眉を上げて、挑戦的に征士は誘った。
...もっとも、やめたならやめたで、これからは相応の扱いを受けるという覚悟をしなければならないだろうが、と、トウマには分かる。
「仕方ないな、セイジだもんな。」
痛いのは嫌だけどな...
セイジが相手ではこれくらいが耐えないと、とてもじゃないが、相手には務めない。伊達に何年も一緒に居たわけじゃない。傷の一つや二つ.....げっっ
激しい打ち込みに手が痺れる。
せっかく女性体になったのに、筋力くらいは元より弱くなって欲しいかも...と、戦いの中でさえトウマはろくでもないことを考えるのをやめようとしない。
......これでこそ彼だ。
パアアアアアアアンっっっ
激しい音をして、呆然とトウマは手の中の竹刀を見る。
いつの間にか、トウマは一角に迫れて、彼の手の中の竹刀も二つに折れた。
但し、本人は無傷に。
「これでいいか?」
はぁはぁと喘ぎながら、それでも表情を変わらずにトウマは聞いた。
「流石だな。当麻。」
動きは速いが、剣の鍛練をしているわけでもないのに、骨のある男だな。感心して征士は思わずに微笑んだ。
着替えを持ってきてやる、とこれだけ言って出て行った征士を惚っというままに眺めて、一人になったトウマは突然に爆笑した。
「傑作だぁぁ!あっはっはははははは。」
打ち込みときの気の鋭さ。洗練された綺麗と言える動き。そして、この自分をこんなに高揚な気分にしているあの気性の激しさ。なによりも、あの最後の微笑みは。
セイジのように誇りが高くて、華やかで。
女性体だけに、艶然で。
─────これ以上ないほど魅惑だった。
セイジのような気性は女性に向いていないと思ったのに。
「どうしようっ」
トウマは笑いが堪えられなかった。
「覚醒させるのが惜しくなってしまったっっ」
───第一章、了───
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