第二章・カオスの仮面

by Nina(1999.9.21)


 四月に入って二週間になった所、征士はやっと新しい生活に慣れ始めた。
 大学というのは、高校と違って自分の勝手で講義を選べる。大体の授業は週に一時間半に二単位が取れる。そして、必要な単位さえあれば、大学を卒業できるというシステムだ。だが、授業の時間そのものは、学校の方が定めるより、教授に任せて、各々の勝手に決めさせることになっているため、早朝と午後の限に集中している。時には、一つの時間帯には、何の授業もないこともある。
 効率のため、征士は一度大学に行ったら、その日に受ける最後の講義が終わるまで、学校の中で時間を潰すと決めたのだが、高校までの時間割りに慣れた彼女に取っては、講義のない限は暇で仕方なかった。
 やっと受験から開放されて、大学生としての自由を手に入れたのに、その自由を手放しに享受するには、征士の性格は律義過ぎる...苦労性とも云うが。大学が始めてまだ間も無く、図書館で勉強詰めになる必要はもちろんない。征士は授業のない限があると、剣道部の道場に顔を出した。
 しかし、授業と授業の合間に道着に着替え、防具をつけて練習する後、まだ普段服に着替えて次の授業に出るのには、時間が無さ過ぎる。ただでさえ、授業のある新校舎から剣道場のある旧校舎には距離があるのだから。
 大学に制服がないのをいいことに、そういう日になると、征士は、朝一番旧校舎の道場に行って道着に着替え、朝練の後に道着のまま授業に出る。一日の授業が終わったら、また剣道場に行って、着替えてから家に帰ることにした。
 道着を着たら授業が受けることができないという規則があるわけではないが、この時代では、和服のままで授業を受ける人はもちろん一人もいない。が、征士の場合になると、

───何故か似合っている。

 元々から人目を引く容貌をしているのに、道着を着ると、尚更目立つのだが、征士に取っては単に実用性を重視し、成り行きに任せたに過ぎないので、この副作用にはまったく気付いていない。もっとも、入学式と「桜事件」で、すでに有名人となったから、今更、これ以上の目立ちようがないとも言えるが。
 征士自分が納得しているこそ現している堂々とした態度に、例え違和さを感じていても、千石の学生達、及び教授達は、彼女の気迫に圧倒され黙認しているだろうというのも事実である。目の保養になるから、というのが裏の理由だと噂されているが、相手が征士だけに、あながち否定もできないのである。
 この日の講義を終わらせて、着替えて家に帰った征士が、玄関に入った所に母に迎えられた。
「征士さん、おじい様がお待ちになさってます。」
 そう言われなくても、帰ったなり一番先に祖父に挨拶することを日課にしている自分に、何故わざわざそういうことを告げる必要があるのだろう、と征士は疑問に思った。
「おじいさまは居間にいらっしゃいます。」
 これでわかった。
 居間というのは、この家の一番大きいな部屋のことを指す。祖父は「正殿」と呼ぶが、母では「居間」とだけに済ませている。一般的な居間といわれるには、無駄過ぎる大きさを持っているのだが、所詮はお客さんが接待されるところだから、同じようなものだろうというのは彼女の持論である。もっとも、普通の客ではまずその扱いを受ける機会があるまい。家族メンバーの友人が来ても各々の部屋に通すのが常である。
 あの、いわゆる「婚約者」殿との顔見せでさえも、祖父の静室に済ませていたんだし。
 祖父のいつもの、自慢の孫の顔見せにしては、祖父私人の客ではなさそうだ。だとすると...
「私への客か。」
 自慢ではないが、この手の勘は外れたことがなかった。
 まず自分の部屋に戻って、正式に着替えてから正殿に入った。
「征士です...何だ、迦遊...」
 はっと征士は語調を変えた。
「いや、カユラか。」
 先日「あの」事件のせいで別れたっきりという状況からすれば、まさに意外な相手とも言えるが、カユラなら納得できる。小忌衣、袙、単、裳、緋袴...巫女の正装を着けている迦遊羅。古から人の心を守り続けるカオス一族の後継者カユラ。
 顔を上げず、カユラは征士に向って一礼した。
「今日はカユラとして参りました。」
「伺おう」
「今年の剛烈剣の奉納試合の主には、征士さまに務めていただきとうございます。」
「奉納試合なら風祭の方が...代替わりか?!」
 征士は流石に驚いた。
「はい」
一瞬の沈黙の後、息を吸って、征士はゆっくりに言った。
「私。に。か?」
 剛烈剣の奉納試合は、男にしかできないはず。ましては代替わりの試合である...あまりにも飛んだことではあるが、カユラも、祖父も、そういう大事なことを冗談にする人ではなかった。
 代替わり。
 世の伝承には、古から伝わった三種の神器がある。その中の八咫鏡が安放されている神宮、すなわち、俗に言うの伊勢神宮には、20年に一度の式年遷宮がある。御神体がある神殿を新しく作り、そこに神様のお移りを願うことだ。この儀式は毎年稲が同じ形でみのるように、建物も世代を引き継いで、永遠の命を維持すると考えられているからである。20年を一つの区きりにしたのは、それが人の一生の中でも、建造技術や調度品、祭器具などの製造技術の伝承の面からしても最もふさわしい節日となる年限であるから。
 カオスでは、その20年一度より、代替わりの儀式がこれに当たる。
 今務めをしている人の気が弱り、新しい代を担う人の気が強くなると、やがて代替わりの時間を迎える。遷宮する度、剛烈剣の封印をし直さなければならない。そのためには、剛烈剣の烈性を受け止める上、それに振り回らないほど気の持ち主が、剣の試合を奉じなければならない。
 剛烈剣の奉納試合は例代、カオス一族に縁のある伊達、風祭、佐々木三家から適任者を選ぶ。この三家共、代々剣道を重視し、盛んで来たのもこういう原因だった。
 代替わりする時に剛烈剣を奉納することに選ばれた者にこそ、次の代替わりまで、年毎の奉納を担当することになる。この者は、いわゆる三家の代表というものだった。毎年の試合主を選ぶのも彼の責任の一つである。
 三家の中の伊達家は、どちらかというと、女系なので、担当することとなった代こそは三家の中で一番少ないが、その代わり、伊達家に男の跡継ぎがいる時は必ずと言えるほど代替わりの主となる。
 ちなみに、今から二代前、勤まったのは伊達のおじい様、その人である。
 影から世を守るため、表と裏を替らせて、何千年も三種の神器を守護して来たカオス一族。カオス一族に言うの三種の神器。命の勾玉は美玉湖に、剛烈剣はカオス本家に封印しているが、輝煌帝は人知らずに封印してある。
 命の勾玉は今、宮中にあるその影の八坂瓊の勾玉を対し、古の都の近くある美玉湖にて鎮座され、この世に姿を見せなくなって久しい。輝煌帝も元より、その姿を見かけた者は存在していない...剛烈剣だけはそのまま、人間界を守り続けてきた。
 剛烈剣の影、すなわち、高名なる天叢雲剣は今、熱河神宮に祭らせている。
 その剛烈剣を代替わりごとに、選ばれた者に依って、真剣の試合を以って剣の気を高め清める務めをするのは、三家の者ならば、誰でも憧れて来たに違いない。
 三家の一つではあるが、伊達家では、この代の継承者たる征士が女性であったため、当主である祖父はすでに、伊達がこの代の主となることに諦めていたのだが。
...カオス一族の巫女たるカユラがそれを頼んできたという。
「はい。その通りにご託宣が下されました。」
 見合わせたカユラの目は澄んでいて深遂である。
 女性である自分に、何故このような御託宣が下すのかはわからないが、カユラの目は間違わず巫女のそれであった。
「承知した。」
「これにて、失礼いたします」
 もう一度恭しく礼をして、カユラは伊達家を辞した。

征士にわかるのは、──まだ一波乱来そうだ、と、それだけだった。




「まあ、実に美しいこと」
 千石大学の名物、桜の通り道に佇んで、迦遊羅は感嘆の声を上げた。
 何かにつけて征士を迎えに来る迦遊羅が、この間、世替りの儀式の打ち合わせ、という口実を得て、これまでよりも、いっそ勤勉に見えた。しかし、高校生である迦遊羅は大学生である征士よりも放課が遅く、かといって無闇に授業をサボるのは迦遊羅のプライドが許せるはずもなく。こうして一緒にいる機会は決まって征士が部活で遅くなった時だけである。
 旧校舎にある剣道場へ行くのに、桜の通り道を通過しなければならなかった。必然に、桜並木に佇む迦遊羅、という構図が出来上がった訳である。
 千石大学剣道部は元々から高名であったことだし、さらに征士が入部した後、一時に彼女を目当てに入部希望者が増えもしたが、上級生の強者揃いの入部試験に耐えて、入部できたものは平年よりも少なかったりする。
 大学の剣道部というものは、強者の集まりというより愛好者達を集まって切琢するのが目的である。いかに千石大学剣道部が有名で、剣道に強い新入生を引きつけることになったが、元は入部試験というものがなかった。部活の練習は普通の剣道部よりは厳しいが、ちゃんと階級もあって少しすづ進めることもできる。
 しかし、今年の状況は普通ではなかった。
 まずは通常部員の練習がざっと増える。次はほとんど幽霊部員と化していた部員がまめに練習に出る。それから、すでに卒業したOB達も、なにかにつけて遊びに来る。旧校舎にある剣道場は決して小さくはないが、こう、後から後へ練習しに来た人達の全てを収まるほど大きくもなかった。
...これでは新入部員に構う余裕がない、と、剣道部の主将は急いで幹部会議を招開して、新しいルールを制定した。OBが練習できる時間と曜日を制限して、一部自主練習できる人を除き、段階ごとに違う練習時間を決める。そして、自分と違う段階の練習の見学もまず幹部の許可を得なければならない。
...部員からの抗議や文句に部長をはじめ、指導教師までも出張って管理しに来ることになって、それでようやく軌道に乗ることになった。
それもこれも、征士が入部したせい、としか理由が浮べなかった。
...だが、征士自身は、最近の剣道部の慌ただしさにまったく気が付かなかった。
昔の剣道部がどのようなものかを知っていないのでは、無理もないが。
 剣道は、元々女性が少数の方である。剣道部の正式の練習以外(つまり、指導する上級生か指導教官かがいる場合以外)女子部員と手合わせすることを避ける男子部員も少なくはなかった。征士は元から自主練習の方であることでもあるし、さらに彼女の方も部員のこく数人と以外、手合わせることを拒んだ。
 剣の派流のこともあるが、自主規制のこともある。征士がずっと親しんだ剣は何と言っても伊達の道場で学んだもの。しかも、祖父から直々と、手ほどきを受けたもの。それは、道場での竹刀を使う練習と違い、主に真剣で実用的な剣だった。
 それが、伊達家が剛烈剣を担う三家の一つだからである、と征士にはわかる。自分はこの剣を後の継承者に教える義務があるということも。
...まさか、自分こそがその継承者となるとは、思ってもみなかったが。
 真剣と竹刀では、違いが大きすぎる。竹刀での試合方も一応身につけてはいるが、本気となった時、思わず元が出るのを防げることができなかった。祖父は別に何も言わないが、征士は、それが自分の未熟さだと認め、他流試合は少数例外を除いて自律することを心に掛けた。
 千石の剣道部は、その少数例外が少しならずいる所であるから、入部した征士である。
 自分から頼んだこともあって、大学で練習する時は大体、もう一つ小さ目の道場を使用していることと、そして、剣道部の中で手合わせできる相手が限れていることと、征士が練習する時に限って、その道場の人気のなさは、実にその身に纏わる気の清冽さのせいだとは、イマイチよくわからなかった征士である。
 こう一波乱も二波乱も経て入部したのに、すんなりと落ち着いた征士である。

 征士が入部したせいで苦労しきった部長や指導教官も、そのことについて何も言わなかった。一つは、この騒ぎは、征士自身にとっては関わり知らずであること。一つは、指導教官は昔から、征士の祖父とは剣友であって、征士のことをよろしくと頼まれたこと。もう一つは、征士への贔屓、としか言えない剣道部一同の気持ち。こんなに剣の道を真剣に進む人は、見なくて久しい。おかげて現在、剣道部全員がいつもより練習に励んでいるのも、征士のおかげだった。
...もちろん、部員でさえ見学するのに許可を取ることになった千石大学剣道部は、部外者の見学を一律、お断りすることになった。
 できたら、征士のいる道場まで迎えにいきたい迦遊羅だが、これで仕方なく外で待つことにした。とはいっても、旧校舎には暇をつぶれる所があまりなくて、古めかしい建物の中でより満開の桜の下で待ったほうがまだましなのである。
 桜に映える迦遊羅の容貌では否応なく人目を引くのだが、それを気にしている彼女ではなかった。
 若い女性は、そういう目立つことを止めたほうがいい、と一言忠告をするのが古めかしい育ちをした征士の性格であるが、いかんせん、そういうことを注意するのに、征士は人の外見や、他人の目光などに気をしなさ過ぎた。
...これはやはり、類は友を呼ぶ、というものだろう。
 しばらくすると、咲き狂った桜の群の中に、桜以上の存在感を背負って、征士は迦遊羅と合流した。
 征士の家は駅から少し遠い所にある。毎日通勤するのには、うっとおしいほど長時間に、歩きを強いられることになる。少なくとも、便利を第一に考える今時の社会人にとっては、あまり向いてないに違いない。が、その代わり、その沿途の景色は都会ではあまり見られないちょっとした物だった。
 駅から、商店町を通ると両側の風景が畑に変わる。暫く歩くと、両脇の家の庭の緑が道路まで迫ってくる。鬱々とした両側の柳が盛んで、車が道を通るのには、日影に入っていることになる。道を沿って左に曲ったら川の堤防に出る。川といっても水量はそう多くはない。この類の川の常として、雨季以外では水が膝に届いてるかどうかくらいだった。暫くは堤防が続いているが、堤防に降りたら川岸に積もった新生地は水鳥の生褄地である。この辺りは本当に人気が少ない。一つ橋を渡ったら、バスが通っているからそれなりに使われてはいるが。もっとも、平日の通勤時間以外ではバスの班次が限られているので、夜か週末かになると本当に寂しい所になる。
 堤防の近くでは、橋の所以外灯かりがないので、晴れる夜になると星がかなり清楚に見える。川の水が少ないおかげて、伝わって来た水音ははっきりしていて、征士は好きなのである。
 あまり女の子あるまじき遊びではなかったが、迦遊羅も、征士も、この川の堤防沿いを自分の庭にして遊んできた。
 春分以来、昼は少しつつ長くなっていくが、この時期ではまだまだ日は沈むのが早い。部活が少し遅くなったせいで、今日は征士達が堤防に出る所で、夕暮れに入った。夕日が水面に反射して明るい金色になった。
「まあ、征士様...」
 迦遊羅は快活に言った。このような時間は本当に楽しみである。
...征士は、しかし、答えなかった。
そして、橋に着くか否やかの所で、突然停歩した。
 迦遊羅が何かを言うまえに、パサパサという雑踏の音がして、あっという間に二人が何人かの男が半包囲された。
 迦遊羅を背に庇って、征士は警戒した。
 半月形のちょっと真ん中にいるのは、背の高い征士よりさらに頭半分くらい高く、ごつごつな筋肉をして、一目で何かのスポーツをやっているだろうとわかる頑強な男だった。
「風祭様!これは何の狼籍なんです!」
 征士の後ろから頭を半分に覗いて、迦遊羅は、鋭い誰何した。
「やはり、風祭家か...」
 征士は呟いた。御三家は別に近くはないし、親しくわけでもない。年に一度の集会はあるが、代理が出たり、弟子が出たり、世替りの儀式以外、三家の人が本当に揃ったのは希である。そもそもそういう儀式には、いつも祖父か母かが出るのであって、征士自身は一度も出なかったのである。但し、剣の道に進む人として、三家の太刀筋はともに祖父から教われているが。
 男達は竹刀や木刀を携帯していないが、征士としては、構えを見れば、一目瞭然である。
 彼女ほどの眼力を持つ人は、そうそういないが。
「何のつもりだと聞きたいのはこっちの方だ。」
 頭領らしい男、風祭が、口を開いた。
「神聖なる儀式を女に汚されるとは。」
 それは、征士が世替りの儀式の務めに指名されたことを指しているのに違いない。
「たかが小娘如きに、剛烈剣も落ちたものだっっっ」
 迦遊羅は声を上げた。
「お慎みを!征士様を蔑ろにするような発言は、このカユラの名を置いて、決して許すはしません!」
「行こう。」
 征士は手を迦遊羅の肩において、冷静に言った。
「このような戯言に付き合うのには、私もお前も暇ではないのだからな。」
「えっ」
 迦遊羅は、一瞬、ぽかんとしたが、直ぐに肯いた。そもそも征士の出席はすでに決定事項なので、今、ここで議論しても始まらない。
 征士達は男達を無視して、再び歩きしかけたが、無視されている方はもちろん面白くなかった。
「カユラだと?!」
 風祭は嘲笑した。
「カオス家の顔に泥を塗った奴が、何をいう。女の色香に血迷ってご宣託を下す巫女なぞは。」
 ぴったりと、征士は停まった。振り返った長めの前髪から覗いた目光は、今まで一番鋭利なものに入るだろう。
「迦遊羅、すこし下がってろ」
 征士は手で迦遊羅の背を押して、橋の向こうにと、促った。
 その目光に直接睨られた風祭が、一瞬、動きが射殺されたのも、無理はないだろう。
「お前らのような輩に付き合う必要はないと思った。こういう意味のない凄みはどうせ犬の遠吠に違えぬ。が、カユラを貶しているのはカオス家の縁のものとして、聞き捨てはならん。」
 何故なら、カユラは間違いなく巫女としての務めをきちんと果たしているから。
 征士の言葉は男達を怒らせるのに十分だった。敵に回るのに、わざわざ怒らせて暴れる元気を付けなくてもいいのだが、征士にとってはそれだけのために、事実を言うことを憚うのには不足だった。
「なんだと!」
 逆上した風祭は攻撃に出たが、すでに征士が機先を制した。
 征士の動きは滑らせるように前に進んだと見えるが、その一つ一つが舞のように円滑でかつ快速だった。瞬く間に真ん中にいる数人をのして、素早く迦遊羅の腕を掴んで包囲を突破した。
 わざと急所が外されていたため、特にダメージは受けてはいないが、あまり鮮やかな動きに気を取られて、男達は目を見張る以外、何もできなかった。
 日が完全に暮れて、二人の影はすぐに闇の中に融けて、見えなくなった。



 いつもなら、このまま征士の家まで行って取り留めのない話をして一日を過ごす迦遊羅だが、このような騒ぎの後ではだめだ、と強く主張する征士に強制に送らせて、そのまま迦雄須家に帰った。
 寄り道して更に遅くなってから家に戻った征士だが、この時間では、祖父への挨拶に行くわけにもいかず、真っ直ぐ自分の部屋に戻った。
 だが。
「何で、貴様がいるんだ?」
 一瞬、ここは確かに自分の部屋だろうか、と確認しかけた征士だった。部屋に入ったなり、部屋の真ん中の畳の上で我が物顔をして寛いでいる人物をみつけたからとしては、無理もないことだった。驚くあまり、襖をあげたまま硬直するということに至らないのは、征士だからこそなのである。

───その人は、もちろん、例の婚約者殿である。

「いや、来たらいないだとさ、どうせならここで待とうかと思って」
...やはり家族に通されていたわけではないらしい。
 それはそうだろう。普通、いくら婚約者同士だといっても、特に親しいわけでもないし。待つといわれても、主がいない女性の部屋に居させるわけにはいくまい。
...例え、主がいても未婚の男女が部屋で二人っきりというのもまずいと思うが...そこまでは征士は気が回らないのである。
 はっきし言って、征士は、幼なじみの迦遊羅以外、この部屋に招くほど親しい友達がいないからである。親しい友は作らないようにしてあったわけではないが、何故か近寄り難いと、誰もが判断するだろう。顔見知りとか挨拶する仲とかならごまんといるのに。
 それが続いているうちに大人になってしまった征士。いつしか、それが当たり前のように思っている。
───それ以外の生き方などは知らないのだから、無理もないのだが。
「女性の部屋には無断に入らないのが礼儀ではないだろうか」
「別に?お前の部屋ってば、何もないんだから」
 腰掛けに頭を乗せてそのまま寝転がって、当麻はコメントした。
「女の部屋ってのは、もう少しこーと、華やかなはずだけどなー」
 レイスのカーテンがあるとか、机の上に化粧品が並んでいるとか、壁には鏡がいっぱい張っているとか、ハボリの香りが漂っているとか、こっちもそこまでとは期待していないから、せめてぬいぐるみ当たり、どうにかならんのかー、と、ぶつぶつと、当麻のコメントが続いている。
...いきなりこういう事を言うか。
 征士はむっとした。こいつといると何故か自分の血圧が上がりそうだ。確かに向こうもわかっていてやっているという節があるから、更に輪にかけているのだが。
 相性というものかな。とにかく奴がこのように怠堕している所を見ると、癪に触りまくる。これがほかの人であれば、例え目障りだと思っても、無視して見て見ぬふりくらいはできるのだが、こいつに限って一言や二言を言ってやりたくなるのは何故、と思わず考えた。
───征士は自分がそれなりに、トウマのことを特別視しているということに、気付いていない。
 もっとも、そのような特別の仕方では、トウマが有り難がっているわけがない。それどころか、セイジって根に持つ奴だなー、と勝手な感想の一つや二つがおまけとして出てくるかもしれない。
「私の勝手だ。」
 言い放ったこの言い方は実は礼儀正しい征士らしくないということを、トウマもまだ気づいていない。
 確かに征士の部屋は、女性の部屋としては相応しくないかもしれない。いや、それところか、この部屋はそもそもきちんと自室として使っているだろうか、といわれても仕方ないほど殺風景だった。
 一言で言えば、部屋の中は何もない。
 現役の大学生としては、机もなければ、本棚もない。灯かりは天井にある一つっきりだし、布団などの寝入り用具はきちんと押し入れに収めているので外からは見えない。衣裳はちゃんと棚に収めているのだが、そこまでは、流石のトウマも勝手に覗いてはいなかった。
...覗いたら、トウマの性格では、「げ、色気がない服ばっかりだなー」と一言でも言いたくなるに違いない。
 八畳の部屋の中はトウマが使っている腰掛けが一つ。その腰掛けでさえトウマが布団が入っている押し入れから勝手に持ち出したものだった。
 これではいくら塵一つなくて清潔であっても空室かな?と疑いたくなるだろう。
 伝統な和室なので、上座ではちゃんと花瓶が一つ置いているのだが、その中は白木の一枝が挿しているだけ。これが生花の一つでも挿してあったら、ここはちゃんと使っているな、とそれなりに納得ができる...かもしれない。

───やはり征士は征士である。

「それで?お前の用は何だ。」
「用がなければ、来てはいけないのか?」
 征士の無声の抗議(というのには、迫力が違い過ぎるのだが)に、トウマはやがて重い腰を上げて座り直した。
 それでも征士に習いで正座するまでにならない所がこの男の天性である。
 征士は無言をもって答えた。
 無礼か、身勝手か、我侭か。
 頼りになる勘は、この男に何かが違うと告げている。そもそもこの当麻となる人物がわからないのである。「あの」羽柴家の跡継ぎとしては、あっさり婿入りを承諾するし。自分の婚約者と名乗り上げたのだが、だからといってそれが目当てだとは──あまりそういう経験がないから絶対だとは言えないが──とうていそうには思えないのである。べたべた付き纏われたかと思ったら、次は何日かも姿を見せなかったりする。
 考えてみれば、こいつは誰だろうか、何をしているか、どこに住んでいるか、どんなことが好きか嫌いか、自分はまったくと言えるほど知らなかったりする。
「お前は、いったい何だったんだ」
 思わずそう聞いた征士だが、言葉が口に出た矢先に後悔した。
「何だ、俺のこと、気になるか?」
 あらぬ方向に話を持って行こうとして、当麻がにやっと笑った。
...やはり...
 どんなことでも自分の都合のいいように話を持っていかれるのはこの男の才能の一つだから、わざわざこういう話題を提供しなきゃ良かった。と、こめかみを押さえて征士は落ち込んだ。
───征士が、何故か自分は当麻の反応が予測できるということに気づくのにまで、まだまだ道程が遠い様だった───

頭痛は未だ始まったばかりであった。



 それは、征士として、考えが足りないとしか言えなかったかもしれない。
 迦雄須に頼んで、ここ最近、迦遊羅の行動範囲が封じられているままのせいかもしれない。あの堤防で襲われた事件のすぐ後としては、迦遊羅が一人で歩き回るのを許す訳には行かない。しばらく彼女から文句を聞き続けられそうだが、とにかくそういう危険な目は迦遊羅にあわずに済む。
 が、そこで、自分の身も危険に晒すことになるかも、と考えない辺りが征士だ。
 自信か、自負か。誇りか……驕りか。
 『自分なら大丈夫』と思ってしまうのは、征士が自分の身に払う気遣いが足りないせい。そして、そういう考えをも、自分の行動の方針に入れるという人生経験が、究極不足のため。
 この日がもし、迦遊羅が一緒、ということだったら、征士はきっと、もっと行動に注意を払っていたに違いない。
 例えば、また日が暮れた時に、件の堤防に一人で歩いている、というはっきり言って危険極めない行動を、取るのに取れなかったに違いない。
 二度、月明かりのない夜に、この暗くて人気ない堤防で包囲されたのは、征士自身の甘さとも言える。
 ちなみに、この時、征士が最初に心の中で浮べたことは『迦遊羅がいなくてよかった』だったりしたというのも。
……まだ懲りていなかったと見える。
 速やかに征士の四周に包囲網が完成した。
 風祭はこの前、相手を侮り過ぎる故に失敗したことを大恥にしているに違いなかった。今度は人数が増えるだけではなく、誰もが手の中に得物を攜っている。それも竹刀ではなく、木刀であった。木刀は沈重さのため、使いようによっては真剣とそれほど違わなかった。一つ間違ったら、大怪我所か、人を殺しかねない代物である。
 征士は便利性のため、常用している竹刀を大学の部室の中に置き、自宅で練習する時は真剣を使うことにした。そのため、今、彼女の手の中は本が入っている鞄が一つきり、まったくの丸腰である。
「落ちたか。風祭家も。それほど剛烈剣がほしいのか。」
 衆寡不敵の場面に征士は却って冷静になった。相手が剣道の経験者であること。一人対多数であること。自分の手には竹刀でさえ持っていないのに、相手は木刀を持っていること。いかに自分が強くても、この状態で開き切りするのは無理である。だが、征士の性格からして、このような卑怯な相手と談合する、という考えは頭の中に浮べるはずもなかった。
 それは征士の愚かさであり、潔さであった。
 どう足掻いても同じことなれば、開き直るしかない。ついでにこのような輩に言いたいことの一つや二つを言わないと腹が落ちない。
 普段が無口なこともあるから、めったにばれないのだが、はっきり言って天晴れな性格である。火の上に油を加えようというのでもないが、いざとなれば、柴くらいは加えかねないのである。
 風祭は怒った。当たり前のことだが。
「その減らず口、叩き切ってやる」
 辺りの雰囲気は一触即発となった。



『もったいない』
 向うの堤防の上、トウマが呑気に評した。
『あいつの顔ってのはめったにない天然記念物だぜ』
 ついでにその性格のめちゃくちゃさも。
『そういうことをいう場合ですか!』
 絶叫したくなるが、状況が状況なので、文句を小声のままに止まるのは例の光の精霊であった。ちなみにトウマの厳命で葉っぱの下に隠れている。隠れてなければ、一発で見つかられるというのは、光の精霊である不便さだった。
『使えん、密偵所かストーカーもできないぞ。』
『したくもありません!!』
 自分の主はトウマではなく、セイジだったということを感謝しつつ、光の精霊は抗議した。
『静かにしろって』
『セイジ様を助けないのか』
 怒らせたのはどこの誰だ、と光の精霊が聞きたかった所だが、それは後に回ることにした。
『嫌だよー余計な手出しだ!と怒らせるのがオチだ』
 大人しく助けを待つタマか、あれは。トウマの呟きが妙に現実味に聞える、ということは、実際にそういう経験があったかもしれなかった。
 そういうことを言う場合か、と光の精霊が抗議しようとした前、トウマが言った。
『まあ、確かに得物がないじゃ、ちょっとまずいな』
 え?
 光の精霊は、いきなり無理矢理身の気が高められたことに驚いて、声が出せなくなった。
『悪いな、ちょっと力を借りさせてもらおう』
 体が熱い、意識が真っ白となった。

 それは一瞬の光。空の切り裂く稲妻が確実な方向性を持って自分に向って来るとしか見えなかった。稲妻としては耳に響く雷がなかった。が、その輝きはそれ以外のものでもなかった。
 咄嗟の間、避けるより征士は手を伸び出したのは。
──知っているから。
 この感覚に覚えがある。手に馴染んだ感触。眩しい光が手の中で一振の剣となった。
 長さはちょっと毎日手に慣れた真剣と似てる。いや、そのものだった。重さも。
 でも真剣としては剣鋒が鈍いままである。
……切れてはまずいから。
 剣さえあれば、恐いものは何もないんだ。そもそもこういう士道不覚悟な奴等に剣道の真意が悟られるはずがない。剛烈剣を承継できるはずもなかった。
 暗いこの河原に、剣気の高さは、一人だけによるものだった。

『ほら、大丈夫だっただろう』
堤防に転がっているまま、トウマは呟いた。



 星明かりで、泥土の地面に細長くて歪んでいる影が映っている。
 風祭は覚束ない歩調で夜路を歩いた。持っていた得物はいつの間にか、あの河原に落ちてたから、明日にでも取りにいかないと後がまずいだろう、ということを考えながら。もっとも、取りにいってもすでにまずいことになっていたのは変わりにないが。
 たかが女一人。
 だから、最初は男衆大勢で軽い脅しでもしたら、怖じ気付いて簡単に剛烈剣から手を引くだろう、と簡単に思った。それが、女だと見くびって油断してみすみす逃がした。
 次は、力こそ全てというこの世の規律を、得物でそのプライド高そうな女に丁寧に教えてやるつもりだった。今度こそ、間違いが起こらないように、人数も、得物も、選びに選んだ。
 それが、たかが女一人に、悉く負けてしまった。
 あんな細い体つきのくせに。自分達の相手くらいなら汗一つかけやしない涼しい顔をして、優雅とさえ言える剣裁きで。
 自分達を負かして、暗い河原であの女は一人だけ光り輝いてた。
 風祭家の長男として生まれた自分にはかつてない程の屈辱だった。昔から、この自分に、逆らえた者がいなかったのに。誰も彼も側に媚びて、恭しくこの自分を称えたのに。風祭の道場で負けず知らずという、あのいけ好かない弟でさえを、本家から追い出してやったのに。
「これで終わりなんて思うなよー」
 風祭は凶悪な表情をして言い放った。正面から勝てないとすれば、裏からいけばいい、というだけのことだった。
「代替わりの祭主」「御三家の名代」という高位から泥の中にずり落としてやる。裏の繋がりなら、いくらでもある。
「そうだ。あの顔だ。あれなら高く売れるだろう。」
 遠く知らず地にでも売ってやって、容赦ない買い主の前で普通の女のように膝付いて情を乞うといい。
「残念ながら、この俺がそんなことを許すわけないんだよ」
 何もなかった所から、突然聞いたこともない男の声がした。
 いつの間にか、風祭家への帰り道の真ん中に長身の男が立っていた。いくらなんでもこの唯広い道で隠れることなんてできないはず。空気の中から現れたとしか思えないその男の顔は、ここの唯一の照明である星明かりを背光にしているせいで、風祭には良く見えなかった。
 その男の声はのんびりでいて、呑気とさえ形容できるのに、風祭は何故か恐いと思った。
「星石って、知ってるか?」
 男は握っていた右の掌を開けて、小さい光る石を現した。
「……そ、その、石は…」
 掌に冷たい汗が瀧のように流れ、落ち着いてろ!と風祭が自分に言い聞かせつつにも関らず、心拍数は上がる一方だった。
 すると、その男の掌にある小さい石が風祭の心拍数と共鳴するように閃ってた。
「綺麗だろう」
 ふふんと、男は嘲笑した。
「皮肉なものだな。星石ってのはその持ち主の魂がいかに汚れても綺麗に光るんだ。光の強さは単に生命力の強さを表するに過ぎないからな。」
 綺麗な魂ほど綺麗に光れば良かったのに、と男は何気もなくコメントした。
 唖になったように口をばくばくしながら、風祭は無意識に後ずさりした。
「その星石を、そうだな、例えば、磨いたり、傷付いたり、砕けたりでもしたらどうなると思う?」
 男は面白そうに言った。
「興味深いだと思わんか?」
 やめろ、と風祭は叫びたかったのに、目の前にいた長身の男が恐ろしくて、喉に石が詰まってるように声を出せず、唯、狂ったように頭を横に振り続けた。
「本当は、こんなことをしてはいけないだろうが、」
 男は話すのを少し止まって、くっくっくとおかしそうに笑った。
「まあ、嘆く人もいないだろうから、別に構わんよな?」
 風祭は目を見張った。彼の恐怖に構わず、男の右の掌の中の石は光り続けた。
 なす術もなく、風祭は自分の意識がなくなるまで、その石の光が段々小さくなっていくのを、唯、恐怖の中で見つめてた。



「またお前か」
 風呂から上がって、自分の部屋へ帰ったなり、人の気配を感じて、征士は庭に面する襖を開けた。そうすると、近くの庭石に座っている招かれざる客が征士に振り返った。
「こんな時間に何の用だ。」
 当麻は征士を上から下までざっと見て、小さく嘆息をした。
「お前って風呂上がりの癖に、もう少し楽な服を着たらどうだ?」
 まだ体から熱い湯気が立っているというのに、きっちり着替えた征士は彼女らしいといえばらしかった。
「私の勝手だ」
 そろそろこの男との話のパターンに慣れて来て、素っ気なく征士は答えた。
「用がなければ追い出すぞ」
 こいつの戯れ言は聞き流かすに限る、ということを思いながら、時間が時間なので、征士はさっさと話を終わらせるようにした。
「う〜ん、用ってね、単に星を見ていただけだけど。」
 思わず征士も頭を上げて、夜空を見た。都会のわりに星がやけに明るく見えて、そういえば、今日は闇夜だった、と一瞬情報が頭の中で掠った。
「地上の人数ごとに星数がある、という説を聞いたことがあるか?」
 当麻の突然の話題転換に、征士は不覚にもあっけに取られた。
「んで、流星は、人が死ぬ時の輝きだったんだって。」
 真っ直ぐに征士を見た当麻を、征士はただ見つめ返した。
「でも、それは、お前にはないんだ。」
 わけのわからない言葉を言いながら、征士の紫の瞳を凝視して、当麻は一瞬、微かに笑った。
「お前がそんなロマンチストとは思わなかったな」
 当麻のいつになく真剣な語気に一瞬惑然して、征士は短く答えた。



 小耳に挟んだ噂によると、風祭家の長男はあの後直ぐ、転地療養という名目で田舎に帰った。風祭家は次男が継ぐことになったそうだ。なんのための転地療養だったのかとか、風祭の容体はどんなものだったのかなどは誰にも知らないだそうだ。
 そして、それっきり、彼の噂を聞くことがなくなった。


───第二章・了───

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