第三章 花咲ける青少女1
by Nina(2003.5.26)
五月に入ったばかりのことだった。
『……ここでもう一度現地の大橋さんを呼んでみましょう。大橋さん?』
『はい、大橋です。ただいま問題の千石大学に来ております。伝統あるこの大学の中にある“桜道”はソメイヨシノが道の両側に植え、市内ではもっとも有名な花見の場所の一つであります。しかし、ご覧の通り、すでに桜前線が北海道まで通り抜いたにも関わらず、ここの“桜道”にある桜だけは何故か未だに咲き誇れます。それについでは、現場の方々に聞いてみましょう。』
『…なるほど。品種はソメイヨシノに間違いないですね。例年は大体四月の初めに一週間ほど…』
『…では、今年もやはり、四月のはじめからずっと咲いているということですね。』
『…つまり、気温も、湿度も、日照も、まったく例年とは違いが認められないと…』
『…お聞きの通り、大学にいらっしゃる専門家達でも頭をひねているこの状況は、しかし、花見客と学生達には喜ばれているご様子です。何故、今年だけ、すでに約一ヶ月間もの長い花期を続いているのか、それについては専門家達がこれからも詳しい原因を究明いたします。
以上、現場から大橋がお伝えいたしました。』
第三章 花咲ける青少女
何でこのようなことになったのだろう。
『親睦』という言葉がある。知人が友人になるため、互いに親しみ、仲良くする努力のことである。
『交際』という言葉もある。いわゆる未来結婚するかもしれない相手同士がお互いをさらによく知るためにつきあうことである。
祖父から決められた婚約であろうとも、征士の場合は、一応後者である。
この時代に顔も知らない婚約者同士なぞやっていられるものか、というのが一般的な常識だった。当人同士に拒否権を持たない政略結婚でもお見合い結婚でも、一応、男女双方を紹介して、お互いの交際を勧めることが今日の流れである。
征士も一応、古い名門の跡取りとして、ずっと昔から心の中でそうなる覚悟を決めたのだが。
それが今になって、何故か…何かが違う気がする。
親睦は…あの男を対象にして、どこをどうとったらこの単語が出てくるのか、極めて疑問である。譬え、見ず知らずの相手であっても、それが、所詮二種類しかない性別の中の『女』であれば、無条件に図々しい…いや、親しみをもって接することが信条なあいつにとっては。今更親睦を図る必要は何もない。
交際は…征士は、あの男と自分のことについて、この単語を使うのは何故か著しく抵抗がある。それは何故なのかはわからないが。
ならば、今、自分がこんな所にいるのは何故なのだろう、とまじめに征士は考えた。
こんな所、とは。
例の『婚約者殿』の家である。状況によれば、これが未来、征士が住むことになるかもしれない所である。
興味がなかったといえば嘘になるが、征士は本音を言えば、来たくは無かった。
無意味なことを言って人を混乱させることが趣味なあの男の背景を知っていたら、もしかして、こちらにも対抗できる情報が手に入るのかもしれない、とは、正々堂々が信条な征士はもちろん考えることもなかった。
が、征士の知らないところで、彼が何をしているのか、どんな行動をしているのか…。
目の前にいないと何故か気にかかる。征士のことだから、もちろん愛だの恋だのというざれごとではない。
つまるところ、当麻が普段征士の目の届かないところに、『世間一般の迷惑になっていないのか』、というのが気になる。それは、どちらかというと、恋人の役目というより、こんなはた迷惑な息子を世間に出してしまって申し訳ない、という親の思いに近い。
無意識にそう思っている征士はだから、来てしまった。
譬え、来る前に、かつて無いほどとてつもなくいやな予感がしていても、のであった。
「よー、来たか。開いているぜ。」
アパートではなく、マンションと呼ぶのが相応しい、駅から五分かからない便利なところにある4LDKだった。外観は一応、おとなしい。
こんな市中心にいる部屋に、譬え客が来るのが分かっていても、鍵がかかっていなかったのは何事か、とか。客──何故かこの単語を使うのに違和感を覚える征士であるが──が来たのに、ドアを開け、真正面に挨拶しに来ないのはどういうことか、とか。言いたいことはなくもないが、征士は、初めて来る場所にそういったことをコメントするのを控えた。『当麻が殊勝にも駅まで迎えに来てくれた』こそがとてつもなく違和感になることをまだ知らず征士である。
ドアを開けて…まずは。
雑乱で汚くて、所々に雑誌や本やゲームや食べ物や、あんなものもこんなものもわけのわからないものがあっちこっちに置いている──男の部屋なんてこんなもんだろう、というのが当麻の持論である──のに、(もちろん、何故かとはわからずに)なんとなくほっとしてしまった征士、が。
──それでも一応、足がつける場所が残っているのに驚いた。
「………」
トウマが整理整頓に目覚めたというのではなく、例の、光の精霊がくどくどと文句を言い続けたおかげである。『羽があるから別に関係ないだろう』とはトウマの弁だが、そういう言い訳が通じないくらい、光の精霊も一応生物学の上では『女』である。
「まあ、すわれよ。」
こそこそと台所の中に入っていた当麻。どうやら飲み物を探しに行くらしい。
当麻の背中を追って、征士の視線もまだ台所に移した。清潔とは言いがたいが、片付けていない食器以外、特になにも置いていないそこは、この家のなかでは一番まともな所かもしれない。
──征士は妙に納得した。
当麻が征士に出しているのは日本茶の中でも上品である『玉露』だった。礼を言って征士が、湯飲みに口をつけると。
ニュースの声がした。
もちろん、隣に来た当麻が付けたのである。
「………………」ああ、やはりこいつはこんな奴だった。客がいるところに断り一つなくテレビをつけるのは何事かと、征士は怒った。青筋マークが出てもおかしくは無いところだが、征士の場合、無表情に輪がかけることになるだけ。
それでも文句をいわなかったのは、そのニュースが征士にも関心を覚えるものだったから。
桜道。
千石大学の旧校舎の道場に行くのに、必ず通っている所。
迦遊羅が来るたびに待ち合わせする所。
──喜んでいた。いや、喜んでいる。今でも。
あそこの桜はずっと征士の存在を『喜んでいる』のである。通り過ぎる度に、愛でられる度に、親しみの持つ視線を向けられる度に。
「あれはお前のせいだ。」事も無げに、当麻は言った。
まるで自分の考えが見透かれるように──いや、この男にはこれくらいがわけないものだが──征士の鮮烈に変わった紫色の双目は、鋭く当麻を睨んだ。
「どう…」どういう意味だ、と聞こうとするその時に。
「と〜〜〜ま〜〜〜く〜〜〜〜〜〜ん(ハァト)」
鍵のかからないドアが開けられ、間の延びて、それでいて過剰なほどの親しみを持っている、間違いなく、『女性』の声が、西洋の挨拶が盛んでいる今日でも、『熱い』としか形容できない抱擁とともに、征士の問いにストップをかけたのであった。
美人だった。
淡茶色の短髪がウェーブを描き、くど過ぎずに薄く化粧をした顔は艶を増し、髪の中に見え隠れしている赤いイアリングには愛嬌があり、身につけているフロル系の香水も気持ちによい。
飾ることを好まない征士とは正反対な、今風の美人である。
自分(の外見年齢)より少し年上というのはさらによかった。可愛いお嬢ちゃんよりも綺麗なお姉さまが好みといえば好みだった。
薔薇と桜。牡丹と蘭。どちらがより良いのか、ではなく、どちらにもどちらの良さがあって、無粋に選ぶことなどできない。
そして、その体勢。女性に押し倒されているのは初めてではないが、そう多くでもなかった。めったにない経験こそ、限界まで楽しむのが礼儀と、真顔で人様に説教したこともあった。
遊び人としてのセンサーが鳴りっぱなし、『ああ〜せめてこんな状況ではなかったらくどっていたのに』、とトウマは思った。
こんな状況、というのは、平たく。
ここはどこ、私は誰、という状態であった。
(誰だー、この姉さんはっっっ)
せめて傍らに征士がいなければせめて征士が女性ではなければせめて征士がセイジであればせめてセイジを繋ぎとめるために違う手段を使っていればせめて……
ぐるぐるとトウマの頭が回転して、過熱一歩手前である。
一言で言うと、征士からみれば、デート(になるのか、やはり)の最中に、(一応)婚約者が見ず知らずの美女に迫られている図、ということになる。
覚醒前であって、しかも人間界では女性である征士に、なにを言えばいいのか。
いや、普通、この状況では、トウマが何を言っても浮気がばれた遊び人な男の言い訳に聞こえるだろう。
過熱のせいか、トウマの考えていることは、なにやら訳がわからなくなった。
──幸い(?)、征士は一応普通の枠から外れている。
当麻を婚約者とは認識してはいるが、征士はその称呼に何故かずっと違和感を覚えている。
むしろ、今のように、目の前に活劇としか呼べないこの展開を見ていたほうがまだ納得がいく。
……やはりこいつはこういう男だったんだ、と。
うろたえる当麻と、はしゃぐ美女を横に、征士はすすっと玉露を飲んで、冷静に観察した。
もちろん、征士とて一応感想はある。
『鍵をかければこういうことは起らずにいられたものを』、つまるところ、『当麻の日頃の行いの悪さのつけが来ただろう』、締め付けに、『自業自得にしか言えないこの試練があった方が、これからのためになる』、と。
美女はスキンシップが好きなようだ。抱擁だけではなく、いやん〜っとかわいい感嘆の声をあげて、頬ずりまでサービスして、止めは形のいい唇でトウマの頬に口紅を残す。
「きゃーとうまくん〜お〜きくなったねっっかわいい〜」
美女が喋っている言葉に矛盾があるのだが、この際、誰も突っ込みする余裕がない。
美しい女性にあつく抱きしめられたうえにキスまでくれて、普段なら喜ぶのこの状況に、これ以上大胆なことをされたらもう終わりだー、とトウマの目の前が真っ暗になって、頭の中は真っ白だった。
が、キスも抱擁も、激しさのわりに色気が足りなかった。
どちらかといえば、親愛の情。例えば、光の精霊が生まれたばかりの月の玉兎を見つけるときに騒ぐような。かわいい〜〜っっ、とか、いやん〜〜♪、とか言って、ふわふわな毛の上に転んで遊ぶような。
人間に例えば、さしずめ、女子学生が店の中にかわいいぬいぐるみと出会ったその瞬間。
恐る恐るトウマは手を美女の肩に置いた、情報を吸い取るために。
そして、驚いた。
「お、お、おふくろっっっ!!!」
年上の美女は、実に年増の美女だった。
どう多くみても二十代に見える。ナスティのように時間が一切作用しないのではなくても、女性というのは皆、無条件に魔女になる資格があるのかもしれない。
年はすでに40近くになるはず、羽柴家の当主──つまり、トウマが人間界で自分の親と設定している人──の妻に当る女性が、久しぶりに会った『息子』を懐かしそうに眺めているのであった。
「トウマ様って、詰めが甘かったんだ〜」
例の『母親』という名前の台風が通り過ぎる前から、既に乱れ果て散らかしている羽柴家の部屋の隅っこに、どんよりと嘆いている乙女が一人。
光の精霊である彼女を『人』と形容するのは正確ではないかもしれないが、乙女であるのは間違いない。
今時、年頃(?)の女性は、譬え友達──この場合、友達というのはもちろん、そのほか大勢の光の精霊である──と一緒に顔やスタイルのいい男を噂にしたり、いつかやってくるかもしれない甘い薔薇色な夢を持ていたりしても、日常生活ではその内容がまったく伺えない現実主義というのが普通である。
光の主であるセイジのような誰もが見惚れる美形ではなくても、トウマも十分、顔のいい男の一人である。特に生まれて間もなかった──言い換えれば、加齢するとともにトウマという男の実態がわかってくる悲しい現実をまだ知らない短くて儚い幸福な期間ともいう──光の精霊達にとっては。
それが、怠けるわ、だらしないわ。その上、サボるための言い訳を考える時以外まったく使おうとしないあのお頭の性能が高いほど虚しさを感じる、と今なら思う。
「っるせーっツのっアルファっっ」
「そんな名前ではありません!!!」
何故アルファかというと、『プラスα』から取ったという。ナスティから正式に命を受けてきたトウマとは違って、単なるおまけという意味である。
名前がないと何かと不便だからトウマが勝手に名づけたのだが、ありがたみもなにもあるものではない。
「名づけようとしないセイジよりはましだろう!」とトウマは当人の抗議を無視した。
セイジが名づけようとしても、何代もの、それこそ何千何万の光の精霊を一々名づけるは到底できなかっただろう。だが、そうすると、名前もなかったのに、彼はどうやって精霊達の個体識別をしていたのか。
「セイジ様はいいんです!感覚でわかってらっしゃるんだから!」
同じ属性であるのをいいことに、眷属達をマイクロな差で違いをつけて『勘』でわかったセイジを、トウマはずるいと思った。手下の彼女たちから無条件に慕われている彼はきっと、こんな風に責難を浴びせたことなどないだろう。
トウマとてまずったと思わなかったもない。降りた折、下界での自分の身分を「征士と近づいてもおかしくない家柄」「家族は居てもいいが、いないのと同じ」、そして「親族、及び知人友人の数は少なくて、誤魔化すのが簡単である」と、この三つの条件だけによって作ったのがちょっと手抜きだったかもしれない。
大学に篭りっきりまったく家に帰ってこない知識人の父親というのはよくても、マッドサイエンティストであるのはちょっとシャレにならなかったし、国外に飛び回っている国際知名なジャンナーリストの母親も、まさかあんな素っ頓狂な性格だったというのも計算外だった。その上、この二人はずっと昔に離婚していたにも関わらず、会うと途端、ラブラブという死語を地でいく間柄であるというのも。
事前に調べれば簡単にわかるものばかりだったが、トウマは必要と感じること以外を調べろうとしないものぐさだった。
珍しくまじめに仕事をしようとするときですら、手抜きな事しかしないが、頭のよさは半端ではないからめったにバレやしない。だが、いざという時は後悔しても遅かった。トウマはまさしくアルファの言うとおり、詰めが甘いのである。
身分の設定を変えたくても、征士と接触した前ならともかく、『人間』の記憶を意のままを操れても、セイジであった『人間』の征士にはどこまで通じるものか…実はトウマにもよくわからなかった。
うろたえるトウマをよそに、意外の塊であるあの母親に対し、『未来の嫁』である征士のほうがまともな応答をした。しまいに『久しぶりに』会ったという母と息子に、『親子水要らず』という美しき状況作りの手助けを自発的に申し出た。
久しぶりもなにも、本当の所、『当麻くん』と『母』とはまったくの初対面であった。幸いか不幸か征士はまだその事実を知らない。
「トウマさまなんて…」
いかに遊び慣れていても、一旦嘆きだした女性を宥めるのは難しい──特に、女性が複数形である場合は──。
「トウマさまがこんな人だったなんて、皆が知ったら…」
「…おい」
とてつもなく恐ろしいことをトウマは考え付いた。光の主であるセイジは感覚でわかったとしても、光の精霊達は何故個体識別ができたのか。
──どうやってお互いを呼び合ったのか。
属性が同じであるという所から推論して、やはり『感覚』でわかるということになる。それを基によると、光の精霊達は、『感覚』で呼び合えることも推測できる。
さらにまずいことに、光の伝達速度というのはどの属性よりも早いということだった。
「おまえ、まさかとは思うが、上と……連絡を取ったりして…ないよな?」今の今まで気が付かなかったので、今頃わかっていてもすでに遅いだろうけど。
「もちろんしてます。」男性と女性の大きな違いは、男性は付き合う対象にならない女性にも甘くなれるが、女性は付き合う対象からはずれるとわかっている男性に対して、容赦などしない。
……そのゴシップネックワークの元締めは、まさか、ナスティではなかろうな……
暗い考えを抱えて、今更ながら、トウマは自分のうかつさを後悔した。
静かに考えたいことがある。
伊達家は門下生が通っている剣道の道場と、その道場近辺以外、そもそも静かなのだが、他人がいるとわかるだけでも今の征士にはわずらわしかった。
自分にはまだまだ修業が足りなかったと思うのはこんなときだ。
手にしている竹刀を振りかざして、征士は思う。
ここは、広い伊達家の敷地の隅にある、ごく一部身内の人だけが使う小さな道場だった。母屋に近い大道場とは違い、夜遅くまで使っても母屋の人たちにうるさがられることもない。その上、離れと繋がっているので、泊り込みで使用することもできる。
ごく一部の人といっても、普段にそれを使うのは、征士と、祖父に、征士の両親だけだった。そして、両親が留守で、師範の祖父は大道場を離れない現在は、もっぱら征士専用と化している。
しつけは厳しいという評判ではあるが、征士の祖父は実に孫娘を溺愛している。征士の心からの望みとあらば、無碍に止めようとするところか、なんとしても叶えてやりたいのが実情だった。その愛孫娘の望みが、普通の、祖父へのものとは思いっきり方向が違うではあるが。おそらく、征士が修業のために山に篭りたいといってもきっと、否という返事が出ないだろう。むしろ、財力と伝手があれば、征士専用に侘しい山一つを買って与えようとするだろう。
征士も、両親よりも祖父に懐いている。……自分に一番近い人間として。
だけど、そんな祖父にも、言えないことがある。いや、表現するとしたら、最近できてしまったというのが一番正しい。無論、わざと隠しているつもりではないが。しかし、成り行きによっては、もしかすると、ずっと祖父に隠し通すしかないかもしれない。自分がそれを考えることを許したこと自体に、征士は驚いている。いつもの征士には考えられないことからだった。
あの日、確かに手にしている光と化した剣。
ニュースにもあった桜道の異変。
──異変が続いて、そして今にも続くだろう。
考えながら、征士は竹刀を振り続ける。心が乱している時に、精神統一するのはやはり剣が一番だ。
それから、この身にも…
「おこんばんは〜」
征士は、この小さい道場の庭に面した障子を閉めていなかった。
そこからひょっこりと一人の大人の女性が姿を現した。
声をかけたのは一応礼儀に沿っていても、無断に他人の家の敷地に入るのは違う。門下生も出入りしているので、普段大門をしめていないのだが、初めて来る客は、まず、母屋を訪ねるのが筋だ。
だが、その行動は無礼より、彼女の図太さと豪胆さ故だろう、と征士にはわかる。
顔は似ていないと思ったが、案外、似ている面もあるのかもしれない。
──当麻と、その母親は。
何の素振りはしなかったが、征士は、彼女がこんなに近くまで気付かない自分に驚いている。改めて自分がいかに動揺したかがわかる。
「何の御用ですか?」目上なので、丁寧である。
「強いね、征士さん。」微笑ながら、彼女は言った。激しい練習にもかかわらず、息一つ乱れなかった征士に。
「その竹刀、女性用のものではないでしょう?」
「わかりますか?」その通りだった。
一般用の竹刀は、女性用のものと男性用のものとは重さが違う。だが、見られるだけでわかるような違いではない。
征士の場合、『剛烈剣』にまつわる因縁があるので、真剣の重たさのほうが慣れている。練習の時も、女性用の軽い竹刀では物足りなかった。
「剣道、何段かしら?」
「三段です。」
段位を取るのには年齢制限がある。三段というのは、大学一年の征士で取れる限度だった。もちろん、例外もある。『特段』という審査制度である。段位の受審を希望し、規定以上の修業年限を経て、特に優秀と認められる者なら、(征士の歳では)五段まで取れるのだが。剣道に愛着を覚えていても段位そのものには興味がない征士は、わざわざ特段の資格受審を申請しなかった。
「そうなんだ。」
客が居ては素振りを続けられない。そもそも気が散るので考え事には向かない。征士は仕方なく竹刀を片付け始めた。
「征士さん、背が高いんだね。」
「そうですか。」素っ気無くても一応律儀に答えている。
「何センチあるのかな?」
「さて、最後に測れるときは178を越えていましたが…」高校を卒業からは測っていなかった。
丁寧に相槌を打ちながら、征士はこの話題にさほど関心を覚えない。このあたりが征士の征士故である。普通、『女性』が大体の男性よりも高いのはコンプレックスになるのだ。
「まあ、よかったわ〜」パンと彼女は手を打った。
嫌な予感を覚える征士は勝手に縁に座っている彼女に振り返って、にこりと笑う笑顔に迎えられた。極め付けに、その語尾にハートマックが聞こえてきたのは、よりいっそ凶悪だ。デジャブかもしれない。
「ちょっと頼みがあるだけど、ううん、是非頼みたいことがあるんだ。というより、征士さん以外はもう考えられないのっっ」当麻の母は勢いと時機にかけて、凄腕の使い手だった。
目上の人には丁寧に。弱い者、つまり女子供は守られるべき存在である──もちろん、その中には征士自分が入っていなかったりする──このあたりが祖父による育ちの賜物である。
あまり知られていないが──なにしろ、外見からとっつきにくい征士に頼み事をする豪胆な女性は母親と迦遊羅の二人しかいない──目上の女性の頼みには弱い征士である。
「一晩、モデルをやってくれないかしら?」
「モデルを、ですか?」一瞬、反射的に断ろうとした。そういう華やかな行事はあまり得てではない。だが、断る理由を探そうと、開かれた右掌に眼を落としている征士、何故か逆に黙ってしまった。
…そこにあるはずのものがすでになくなっていることと、つい先までそれを考えていたことを、ようやく思い出したからだ。
そして、断るタイミングを失って。
「一晩だけでいいから。ね?ね〜?ね〜〜っっ?」何が「ね」なのだろう。征士は自分が突然日本語をわからなくなったと思う。
「…とりあえず、お話を伺いしょう。」
話を聞れば聞くほど断りづらくなってくる。それでも、征士は断るつもりでいたのだ。
庭に、当麻の姿を見るまで。
そして、三秒くらい間を置いて、征士は頷いた。
来客が帰って離れの道場が元の静さを取り戻した。更けてくる夜の露と風のために、征士は庭を面した襖を閉めようとする。
はっと征士は面を上げた。当麻の声が聞こえたのだ。すでに彼も彼の母の姿もいなかったが、しかと聞き取ってしまった。
声ではないかもしれなれなかった。
わざわざ、自分の家に誘って、『あの』ニュースが流した時にテレビを付けて。
──深藍に輝いた、にやっとからかうあの目差しがこう言っていたのだ。
『あれはお前のせいだ』、と。
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