銀の路・外伝第2話「不器用な人」

 彼女はセレニオの母である。
 息子に対する愛情はない。
 嫌っていたわけではない。
 そもそも、誰に対しても愛情を持たなかった。
 
 
 
 彼女セシリアが唯一愛したのは、血のつながった兄だった。
 子も成した。
 しかし、その子が兄を殺してしまった。
 だから、セシリアも同じように人を殺そうとした。
 
 
 
 まさか、自分の息子に斬られるとは思っていなかった。
 それでもセシリアは死なず、村の者達は彼女の異常な生命力を気味悪く思った。
 村の者達は彼女を「他の村に嫁がせた」として追放した。
 彼女は「別に、どうでもいい」と思った。
 
 
 
 追放先の村で、誰もセシリアと関わらなかった。
 セシリアも、誰とも関わらなかった。
 その必要はなかった。
 彼女は短剣一本あれば、どこでも生きていけるから。
 
 
 
 海の民が攻めてきた時、セシリアは迷わず逃げて、近くの森に潜伏した。
 攻めてきた者達の気配が去り、セシリアが村に戻ると、そこは無人になっていた。
 何の感情も湧かなかった。
 セシリアは以前と変わらず、一人で暮らした。
 冬が来れば、食べ物が手に入らなくなって餓死するかもしれなかったが、セシリアにとってはどうでもよかった。
 いつまで生きていてもいいし、いつ死んでも問題は感じなかった。
 …そんなある日、村に人が戻って来た。
 殺されずに連れ去られた一部の者が、解放されたのだろうか。
 セシリアは殺人狂でもなければ、村の土地を独り占めにする意志もなかったので、彼らの前に姿を現した。
 すると、村人達を引率していた赤毛の大女が声をかけてきた。

「つかぬことをお聞きします。ご婦人は、セレニオ君のお母上、セシリア殿でいらっしゃいますか?」

「あなたの言う『母』の概念による。生き物として、その名前の者を産んだのは私だが、その後の養育に携わった記憶はない。」

 その奇妙な話し方も、冷淡な鳶色の瞳も、獣のような身ごなしも…全てがセレニオに似通っていた。
 赤毛の女は、ひざまずいた。

「お捜ししておりました。私は海の民の残党にして、海賊のアトランタ・エルカスト。セレニオ君の故郷の村を再建するにあたり、お母上にもご同道を願いたく、参上しました。」

「私を人質にするつもりか。構わない。ただ、役には立たないと思う。」

 セシリアはそう答えると、赤毛の女…アトランタに手を差し伸べ、立ち上がらせた。

「私に頭を下げる必要はない。久しく人と関わっていなかったので、虚礼は忘れてしまった。その私に利用価値があると判断するなら、勝手に使えばいい。」

 そう語るセシリアからは何の意志も伝わって来ず、アトランタは苦手意識を覚えた。
 
 
 
 アトランタはセシリアを彼女の故郷の村に戻し、衣類や食料でも優遇した。
 しかし、セシリアは何も感じなかった。
 その待遇が「セシリア」に対してではなく「セレニオの母」に対する物であると、知っていたから。
 セシリアなりに、二つの概念を結び付けようと努力はしたが、自分が人の母であるという実感は得られなかった。

「アトランタ殿、教えを請いたい。私には元から心がないのだろうか?」

「難しいご質問ですな。人の感情の起伏には、個人差がございます。確かに、セシリア殿の感情の揺れは小さく、読み取りにくくはあります。…が、それと同じくらい、理性と礼節に富んだお人柄を感じます。」

 アトランタは本心から、そう思っていた。
 確かに、村人達が語るように、セシリアには酷薄な一面がある。
 しかし、彼女は嘘をつかず、約束したことは守るという側面も併せ持っている。
 人と同じ暮らしには向かなくても、人と異なった価値観や道徳観で生きていても、折り合える可能性があるのではないか。
 少しずつだが、セシリアを見るアトランタの目も変わりつつあった。
 
 
 
 それから1ヶ月ほど経ち、セシリアが木の上で居眠りしていると、海に出ていたアトランタが村に戻って来た。
 気配を感じたセシリアが目を覚まして見下ろすと、アトランタは15歳くらいの女の子を連れていた。
 少々太り気味の体格で、着ている物も上等で、身分ある人物なのかもしれない。
 興味を持ったセシリアは、アトランタ達の目の前に飛び降りた。

「戻られたか、アトランタ殿。そちらの娘は?」

「ご紹介する。セレニオ君の副官、ミルカ殿です。しばらく、セシリア殿のところで預かっていただけませんか?」

 そうアトランタから求められ、セシリアは女の子…ミルカに冷たい視線を向けた。
 一方のミルカは動じず、進み出て、セシリアにお辞儀をした。
 その無防備さに少々困惑しながらも、セシリアは相手を睨みつけた。

「この小娘が逃げだすまでは、な。」

「お世話になります。『お母様』。」

 ミルカは相手がセレニオの母親だと見抜いていた。
 そして、屈託のない榛色の瞳で、セシリアと視線を合わせた。
 ミルカはセレニオと関わった時の経験から、その母セシリアの性質についても見当をつけた。

「(あの人は…自分に向けられた感情を、相手にも返してたのかもしれない。)」

 その推測が当たっているのか、ミルカにも確証はない。
 それでも、ミルカは「この人には愛情を向けよう」と決めた。
 
 
 
 それから数日後、村の守人フォクメリアが立ち寄ると、ミルカがセシリアに絵本を読み聞かせている所だった。
 ミルカの身の安全を心配して訪れたフォクメリアも、その光景には絶句した。
 一方、セシリアはフォクメリアを手招きし、家に招き入れた。

「私がミルカに危害を加える、と思ったか。賢明な疑いだが、事実は異なる。」

 セシリアはそう前置きして立ち上がり、フォクメリアと向かい合った。

「先代の守人やセレニオは、私についての話を、お前から遠ざけていたな。…だが、今のお前は守人だ。恨み言も兼ねて、聞いておいてもらおうか。」

 そう話すセシリアの意図を、フォクメリアは量りかねた。
 セシリアは「聞け。」というと、話し続けた。

「まず、村が養っていける人数は限られている。お前が知っているかはともかく、生まれた時に『間引き』として殺される赤子は多い。私もそうした赤子の一人だった…が、水に押し込まれても死なず、『忌み子』として生きることになった。」

 こうした村の「暗部」は、理想を掲げるべき指導者に知らされていない場合もある。
 特に、次代の守人として特別に育てられたフォクメリアからは、そうした現実は隠された。
 しかし、そのフォクメリアも今では守人で、セシリアの語る現実に向き合う必要がある。

「父も母も、私を避けた。ただ兄のアンデレだけが、私の存在を肯定した。そして…年頃になった私は兄を性の対象とみなし、子を成した。」

 ここで、傍で聞いていたミルカが「ぶっ!」と吹き出す。
 あまりに唐突に明かされた、セレニオ出生にまつわる逸話だった。

「私は狩人セルシオに嫁として押しつけられたが、その家でも無視された。子供…お前達の知るセレニオも、私を避けた。人間は孤独だと思った。」

 こうしたセシリアの境遇も、セレニオは誰にも話していなかった。
 冷たい息子ではあったが、彼にも「メリア姉(フォクメリア)に心配をかけたくない」という心遣いがあった。
 …もっとも、彼は実の母セシリアに対しては、何の心遣いもしていなかった。

「すべきことを見出せない私は、とりあえず、兄に近づく女を殺して回った。兄の子を産んでいいのは私だけだと思っていたし、今でも思っているから。そうしたところ…セレニオが兄を襲って、あの部分を切り取ってしまった。それが元で、兄は失血死した。」

 あまりに血塗られた一族である。
 聞いていたフォクメリアもミルカも、卒倒しかけた。
 それでも、セシリアの話は続く。

「あれには、私も動揺した。気を落ち着かせるために、兄の身の周りでただ一人生き残っていた女…兄が私以外の女に産ませたサランドラを消そうして追いかけていたら、セレニオが駆けつけて来て、私を斬った。」

 フォクメリアも今になって初めて知った、セシリア追放の裏事情であった。
 ミルカもフォクメリアも「聞きたくなかった」と心から思った。
 一方、その二人の反応にセシリアも気づいて…急に弱気になった。

「すまないな。私の話は、人を不快にしてしまうらしい。…ただ、最後に一つ訊いておきたい。私がセレニオを殺そうとしたら、お前達はどうする?」

「即座に、セシリア様を討ち取ります。どんなに生命力が強かろうと、生き返らないくらい、確実に。」

 セシリアからの答えにくい問いに、ミルカはうっかり即答してしまった。
 すると、セシリアは普段の毅然とした態度をかなぐり捨てて、ミルカを突き飛ばした。

「もういい! ミルカなんて大嫌いだ!」

 そう叫んで、セシリアは家を飛び出してしまった。
 
 
 
 その日の夕方、ミルカはセシリアの好物である鶏肉の煮込み(この頃には、セシリアも火を通したものを食べるようになっていて、馬の餌から豆を盗み食いすることも少なくなっていた)の鍋を手に、木の根元から呼びかけていた。

「セシリア様ー、降りてきてくださーい。冷めちゃいますよ? それに、まだ冬なんですから、お外で寝ると寒いですよー。」

 そう言いながら、寒いのはむしろ、ミルカの方だった。
 日中は暖かくなってきたようでも、夕方以降の冷え込みは、やはり厳しい。
 まして、屋外で寝るとなると、元兵士のミルカでも自信はなかった。

「(まあ…今日はここで野営するかな。)」

 ミルカは腹をくくった。
 すると、その決意を感じ取ったのか、セシリアが木から降りてきた。
 しかし、セシリアは頬を膨らませたまま、何も話そうとしない。
 急に身をかがめたセシリアは、石を拾い上げて、暗がりめがけて投げ込んだ。
 そのセシリアに、ミルカは話しかけた。
 他人にとってセシリアは「セレニオの母」であっても、本人にとっては「セシリア」のはずで、その胸中はミルカにも心当たりがあった。

「あたしも、『セレニオの副官』である前に『ミルカ』な、はずなんですけど、ままならないもんです。人間って、海の民も含めて、『つながり』ですから。…でも、ごめんなさい。それでも、あたしにとって、セシリア様は『お母さん』なんです。」

 そう言われた時、セシリアの呼吸は一瞬、止まった。
 それでも、セシリアは努めて冷淡な口調で答えた。

「聞こえないな。私は私だ。…帰るぞ。『つながり』などと、難しいことは、私には判らない。関係も、どうでもいい。…ミルカはミルカだ。それで十分だ。」

 そう言って、セシリアはミルカから鍋を受け取って小脇に抱え、残った右手をミルカに差し出した。
 そして、二人は手をつないで、帰途に就く。
 夜が近づき、風がいよいよ冷たくなる。

「先ほど隠れていたのが、赤毛かメリアか、どちらだったのか賭けないか? あと…『大嫌い』と言ったが、あれは嘘だ。」

 今さらながらのことを言い出すセシリアの横顔を、ミルカはあえて見なかった。
 どんな表情を浮かべているか、セシリアは隠したいだろうから。

目次に戻ります

第1話に戻ります

第3話に進みます

他の小説に行きます

小説以外のお話に戻ります