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 当社は天平九年(西暦七三七年)鎮守府将軍大野東人が軍事輸送の為に色麻柵より出羽国に至る通称「玉野道路」を開いた時、悪疫が流行し多くの兵士や人夫が斃れたので、将軍は薬莱山上に医薬の守護神『大己貴神』『少彦名神』を祀って病気の鎮伏と工事の完成を祈願し無事工事を終えたと伝えられ、これが当社創建の事となっております。

 やがて延暦二十三年(西暦八〇四年)になりますと征夷大将軍坂上田村麿が東征の折、薬莱山上に日吉二十一社の内より薬師三社を勧請し、同時に上野目大宮に大宮大明神(現在の里宮)、本郷の地へ八王子一社を奉祀して東国安泰万民康楽を祈りました。

 爾来、山号を「薬莱山」と称し医薬の守護、病難退散、壽福招幸の守り神として近郷一帯はもちろん東北・関東地方より信仰されております。

 鎌倉期貞和二年(西暦一三四六年)大崎家兼公がこの地を領するに及んで深く尊信され、その庇護を受け大崎鎮護の大神と仰がれるに至りました。 その後伊達氏版図に入るや一転、采邑所領の全てが没収され社運は衰微しその護持は困窮を極めたと言われます。しかし、別当祀官は修験者となって奉仕し守り続け、明治維新後村内の神社を合祀し現在を迎えております。


 薬莱山はその秀麗な容姿で知られ、加美富士(神富士)、東小富士或いは姫山などとも呼ばれ親しまれております。

 現在の薬莱神社は山上に奥宮と上野目大宮に里宮の二社殿になっており、里宮は拝殿(慶長十年頃・西暦一六〇五年頃)、本殿(大宮明神 享保一二年・西暦一七二七年頃)の建造であります。里宮社殿は平成15年には御鎮座1200年を記念し、昭和53年の宮城県沖地震により各所の傷みが激しかった為、新たに建て直されました。同時に山上奥宮の南宮の改修工事、北宮の建替えがおこなわれました。


 社紋は三種あり車前草紋(オオバコ)で坂上田村麿勧請のしるし、五七桐は大崎家が朝廷より拝領の紋で尊信深いしるし、竪引の紋は伊達家より社門と共にいただいたものであります。

オオバコ吾七桐竪引

 社門は正柱三本立の変形式で、三ツ脚門・七ツ脚門と呼ばれています。貞享元年(西暦一六八四年)、伊達家が深く信仰された塩竈神社のお釜が不思議にもカラカラになり、いくら水を入れても貯まらなくなってしまった。 兇変の兆しと領内の神官・僧侶・修験者が加持祈祷を行ったが験がなかった。 そこで当社伝来の三輪流神楽(宮城県重要無形文化財指定)が藩の命を受け塩竈神社神前に於いて七日間祈雨泰平の神楽を奉演し、満願の時慈雨の恵を得た。殿様は大変喜び、その賞として何を望むかと問われたので、大手門のような立派な門が欲しいと答えた。 殿様は大変困り、番所のような門では具合が悪いから柱を一本抜いたものと竪引両の紋をつけることでどうだ仰せられ、有り難く頂戴したものです。


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加美富士
加美富士 (神富士)
奥宮
奥宮
里宮
里宮

社門
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