(ジョギングのコーナー) (74)久々、5キロマラソン |
田子の浦マラソン5キロに参加 手術後、1年ほど過ぎたころに再開したジョギングは、細々とではあるがつながっていた。 以前は、マラソンのための脚筋力アップを目的にして、ときおり山登りをしていたが、主客が転倒して、 今は山登りのための鍛練として1回に20〜30分、週3〜4回のジョギングを習慣としていた。 細々ながらもジョギングが途絶えずにつづいているのには、もう一つのわけがあった。それはもう無理かもしれないが「いつかまたフルマラソンを完走したい」という密かな願いが、いつも心の片隅にしがみつくようにして温存されていたからである。 9割方望みのないなそんな夢が、どうしても捨て切れないでいた。 昨年1年間で日本100名山を30座登頂したが、冬に入ると100名山登山の方は冬眠状態となり、もっぱら近郊の低山ハイキングに精出していた。 そんなとき知人から5キロのマラソン大会参加を誘われた。 思えば洗面器の絵の具をひっくり返したような下血のつづく状態のとき、ぼろぼろになって走った安中市10キロロード、44分01秒、あまりの結果に呆然とした3年半前のあの大会が、私の最後の大会であった。 もう2度と大会に参加することなどないと思っていたのに、折角の誘いに乗って申し込みをした。5キロなら特別な練習をしなくても完走だけは出来るだろう。 1989年4月、あの手術から3年3ヶ月目のことである。田子の浦マラソン大会5キロ、しまいこんでいたランニングウエアを取り出し、海風に吹かれながら自分なりの力で走ってみた。 タイムは24分08秒。 わずかの時間だが、途中もし排便があったらという不安でパウチをつけて走ったが、そんな心配は無用だった。 たった5キロでも、それなりにがんばった清々しさは気分良かった。 二度と叶うまいと思っていたマラソン大会参加という夢が、いとも簡単に実現してしまったのが嘘のように思えた。 まだまだこれからいろいろなことが出来そうな予感を感じていた。 転移という気がかりは依然としてついて回っていたが、このころを境にして、気持ちの中から「病後」という観念が次第に薄くなって行った。 もどる つづく |
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