(登山のコーナー)
(59)山への想い

不安は排便の処理
軽いジョギングはつづけていたが、体力的な負担を感ずることはほとんどなかった。
しかし登山となればまた話は別だった。 来る日も来る日も「どうしたら登山をすることが出来るか」そればかり考えていた。

山の中では、それが小さなアクシデントであったにしても、その場でうまく対応できるかどうかわからない。 勿論一番の不安は排便の処理である。 今は『洗腸』により日常生活に大きな問題もなく過ごせているが、登山となると山中での洗腸など到底考えられない。
入山前に洗腸をしても、次の排便までの間隔は最大見ても48時間である。
ところが山中2泊、下山後1泊という日程だと、概略90時間はある。 加えて慣れない山小屋での食事と、飲み水は生の流水である。下痢の発生が大きな不安だった。
(パウチはつけていても、下痢の水様便がストーマ周辺の皮膚に付着するのは避けられず、不消化便の刺激による皮膚のカブレ、タダレにつながるのが怖い。またパウチに水様便を溜めて登山行動をすること自体私には考えられなかった)

下痢の有無は別にしても、予期しない不意の排便に備えて、山行中絶えずパウチを着けているとすれば、今までの経験から3日目あたりからカユミ、痛みなどで相当つらい思いをするのは目に見えている。
食事の量を減らして排泄を少なく押さえる手もありそうだが、果たして効果はどうだろうか。

街にいれば何が起きても対応の方法はある。山の中での出来事となると自分だけでなく、他の大勢の人にまで迷惑をかけるかも知れない。
さまざまな不安はあったが、考えているだけでは何も前に進まない。展望も開けない。 「生きがい療法」の講習会でも“穂高岳へ登りたい”と書いてきた。
とにかく行動を起すことが先決だ。

新たなライフワーク
あれこれ思案を重ねながらも、ある日妻と長男が付き添い東京近郊の丹沢の山へ出かけた。試しの登山である。
長男は穂高岳登山のサポートを想定し、書籍を詰めた重たいザックを背負っていた。
4時間ほどの軽いハイキングだったが、何の支障もなく予定のコースを歩いてきた。

取るに足らない小さなハイキングでも、4、5ケ月前にジョギングを再開して、ようやく前向きな生き方に目覚めかけていた私に、もう一つ命の炎に火をつける大きな大きなきっかけでもあった。
私にとって、かつてのめりこんでいたジョギングのように、今度は姿を変えて『登山』が新たなライフワークとなって行くこととなる。

言葉を変えれば、ガン・人工肛門という出来事が図らずも道筋をつけ、50歳にして私が手中にすることとなった「第2の青春」の幕が今開けようとしていたのである。

若き日のたぎるような情熱が、次第に私を山へと駆り立てて行くことになった。


の思い》

妻は、満1年を待ってジョギングを再開した姿を見て、ようやくここまで来た言う思いで見ていた。
登山の話をした時も、担当の医師は「無理をしなければいい」ということに一応の安心はしていたようだ。
穂高岳へ登りたいと言う気持ちはそれなりに理解し、せっかく前向きに歩きはじめた気持ちを大事にしてあげよう、応援してあげよう。転移などでいつどんな事態になるかわからない。出来る間にやらせて上げよう。
妻は後日、当時の心境をこのように話していた

いくらジョギグで鍛えた体とは言え、それはもう1年半も前のこと、体力はそのころとは比べものになりません。
次男は都合でだめだったが、長男と二人で出来るだけサポートして、私の負担を少しでも軽くして何とか登らせて上げようと思っていたようです。
夕食の終わった後、毎日のように本を詰めて重くしたザックを担ぎ、長男と二人で近くの70段ほどの階段トレーニングに行っていました。
衣服や雨具など登山用品の知識もありませんから、今振り返ると、私たち3人はよくあんな格好で荒れ模様の3000メートルの山へ登ったものと、当時を思い出して話したりしものです。

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