(登山のコーナー) (60)穂高岳登頂 |
穂高登頂の夢を果たす 梅雨がはっきりと明けないままに、7月の下旬を迎えていた。 穂高岳登山へ出発する前夜洗腸を済ませた。 妻、長男とともに沢渡からタクシーで上高地へ。 「また一緒に月光に照らされる槍ケ岳を見に行こう」と言っていた次男は、都合がつかずに同行出来なかった。 不意の排便に備えて最初からパウチを着けることにした。 第1日目の行程は上高地から涸沢の山小屋まで。心配するような事態は何も起こらずに無事に山小屋へ到着。久しぶりにハードな運動量だったが、疲労はあまり感じなかった。 2日目は涸沢から北穂高岳を経由して穂高岳山荘までの予定になっていた。 天候は思わしくない。雨まじりの風が吹いていた。北穂高岳の山頂では冷たい雨と風が叩きつける。 妻と長男は、3000メートル山上での荒れ模様を体験するのははじめてであった。 北穂高岳から岩稜を渡って穂高岳山荘への縦走コースにかかった。風衝帯を通過する時は、四つ這いしないと吹き飛ばされてしまいそうな強風が、私たちに襲いかかってきた。無事に穂高岳山荘へ行き着けるだろうか。そんな不安が脳裏を幾たびもかすめた。 視界のきかないガスの中に、涸沢槍が誰も 寄せ付けぬ絶壁のように見えた。 行き交う登山者の姿もない。 不安と風とに戦いながらも、登山にはずぶの素人の私たち3人は何とか予定の山小屋へ入ることができた。 小屋の中は出発を見合わせて天候待ちの人で混雑していた。 この日、穂高岳山頂を踏む計画を立てていたが、これ以上「冒険」をする勇気はなく、そのまま宿泊することとした。 (山慣れた現在では、この程度はどうと言うことはないが、当時私たちにははまさしく冒険的行為であった) 2日目の夜を待たずに排便が始まった。出発前の洗腸から40時間余である。 便の入ったパウチを着けているのが気持ち悪くて、つい新しいパウチに着け代えてしまう。実はこれがいけない。 接着剤を剥がす時の強い刺激で皮膚を傷めてしまうのだ。 日ごろは洗腸しているので、パウチを頻繁に交換することはない。不安への対応ばかりを考えて、瀕回交換による皮膚への悪影響を軽く見過ぎていた。 案の定、翌朝にはストーマ周辺の皮膚が赤く変色していた。痛カユイ。時間とともに酷くなって行く。薬を塗るとパウチの接着剤が効かない。 自宅へ戻って洗腸し、パウチから解放されるまでにはまだ1日半もある。今は我慢するしかない。 3日目、山小屋で荒れ模様の少しでも収まるのを待ってからザイデングラードを上高地へと下り、この日は安曇村村営ホテルに泊った。 まだこのころはホテルで洗腸するなどと言うことは思いもよらなかった。 勿論パウチをつけたまま、大勢の客にまじって温泉へ入るなんて言う勇気はなく、妻や長男が温泉へ行くのを羨ましく見送った。 転換点 たった山小屋2泊だけの山行でも、私にとってはとてつもない大冒険を果たし終えたと言う心境だった。 1年半前には、失意そして挫折感に打ちのめされ、冷たく聳える白馬岳の銀嶺をぼんやりと病院の窓から眺めていた。それを思うと自分の足で穂高岳に登れたと言うのは、想像も出来なかった奇跡か夢でも見ているようだ。久しく忘れていた充実感であった。 山小屋では洗腸をする術もなく、排便処理、ストーマや皮膚ケアやなどに課題は残った。もしこれからも登山をつづけるとしたら、人工肛門のハンデイが大きな制約になるのを認識せざるを得ない。 制約は登山だけではない。あらゆる場面に起こりうることを覚悟しておく必要があった。 「質の伴った生き方」を求めるなら、それは乗り越えなくてはならない壁である。 制約を感じながらも穂高岳登頂と言う本格的な登山が、案じていたよりずっと順調にいったことは、「やれば出来る」そんな前向きな気持ちとともに、また一つの自信を積み上げてくれた。 今振り返って見ると、ガン・人工肛門は私の生き方・人生観を変える転換点の始まりであったが、この穂高岳登山によって転換の最後の弧が描き終わった。そしてその弧の延長線上に私のための新しい路が開かれていた。 この後、気障を承知の言い方をすれば、幕を上げた『第2の青春』へとまっしぐらに突き進んで行くことになります。 もどる つづく |
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