(登山のコーナー)
(63)いのちの燃焼・山へ

燃焼できるものが欲しい
入院中にふと目にした大腸癌講演記録の一節がまた思い浮かんだ。
『病変部を切除できたケースについては、統計上癌完治の目処となっている5年生存率は50%にまで向上・・・・・』という記述である。

確かに最初の1年は何事も起こらずにクリアできたものの、すでにリンパ節へ転移、そして他の臓器への転移も懸念される私が、5年生き残り組の50%に入れる可能性はあまりない。 しかし今のところその他臓器への転移は認められないし、異常もない。体力もそれほど落ちているようにも思えない。
この状態ならあと半年やそこらで命が尽きることはなさそうだ。
5年は無理としてもその中間の3年は大丈夫のような気がする。それなら残りは1年半ある。
理由もなくこの頃私は勝手に余命1年半を意識するようになっていた。

寝床に入ると余命1年半の生き方についてさまざまな思いを回らせた。
百名山を考えるだけで、わくわくするような闘志がみなぎって来る。
私の肉体はジョギングという燃えるような目標を失ってから、新たに燃焼する対象を探し求めていたが、今ようやくその対象を見つめていた。

固まって行く夢
しかしどんなに気持ちは昂ぶり、激しく燃え立とうが、勤めのかたわら百名山すべてを1年半で登り終わるなんていう、そんな夢のようなようなことは、どう考えても叶うはずがない。

全部登れなくても何もしないよりはいい。
とにかく何かをやること、命を燃焼させることが大切なんだ。
「ここまで出来た」ということでいいではないか。

「日本百名山」の本を手に入れた。 改めて山名をチェックしてみると、それまでに登頂した山が12座あった。

  霧ケ峰 ・ 蓼科山 ・ 雲取山 ・ 大菩薩嶺 ・ 白馬岳 ・ 越後駒ケ岳

  美ヶ原 ・ 常念岳 ・ 妙高山 ・ 槍ケ岳 ・ 高妻山 ・ 乗鞍岳

という関東甲信越の山である。
東京周辺で比較的アクセスが便利と思われる山が他に25座くらいありそうだ。 1年半でもしこの25座前後を登れば合わせて約40座。それだけ出来ればこれはすごいことだ。

生きた証が何一つ残っていない私だが、これからの登頂の記録を、死を意識してからの最後の生きざまとして克明に綴ることにしよう。そこに私の生きてきた人生の一こま一こま書き添えていけば、それが生きた証になるような気がする。

迷いながらも思いは徐々に一つのものとなって固まって行った。
私は決心した。 日本百名山に挑戦しよう。それが私の『生きがい』だ。
生きがい療法の勉強会で“生きがいを持って癌と闘う”ことを教わってきた。私はこれで癌と戦うのだ。
癌なんかに決して負けない。勝つのだ。

ふさわしい生きがい
こうして日本百名山への挑戦が大きな目標として定まった。
登山が楽しいと思ったからではない。登山を逃避の道具にしようとしたのでもない。
登山と言う未知に等しい媒体を通して、難しいものに挑戦し、命の燃焼を果たしてみたいと言う熱望が駆り立てたのだ。ふとしたきっかけで日本百名山がその対象になったに過ぎないのかもしれない。

登山、あるいはハイキング愛好家の中には『日本百名山を志向する人々をブランド志向とか百名山病』などと言って蔑視したり揶揄する風潮もある。その言葉は素直には受け入れ難いが、そのように言う彼らには彼らなりの理屈があった。

私が日本百名山を残り少ない(と思っていた)人生の生きがいに結び付けたのは、百名山病がどうこう言う一般的な論理とは次元の違いがあった。 汗を流し、肉体の燃焼を実感できるもの、自分なりに生きていることを実感できる対象と思ったからである。

もう一つ大切なことは、登山の場合一つの山を登頂すれば、その都度達成感を味わうことができる。
この先の短さを思えば、これは重要なことだった。10座で終わったとしても、少なくてもその10座は登頂を完結しているのだ。
ジョギングに明け暮れていたときとは明らかに違っていた。次の大会の目標タイムを設定しても、そのために半年、1年あるいはそれ以上の練習を積んでからでないと結果が出ない。それ故にやりがいも大きいが、私にはもうそうした『贅沢』な時間の使い方は許されない。 安易かもしれないが、すぐに結果の確認できるものを選択したという言い方ができそうだ。

ずぶの素人として
とにかく登山についてはずぶの素人であった。 安全かつ楽に登る方法として、山岳会に入れてもらうことも考えたが、敢えてそうはしなかった。
山への動機が他の人とは違う。

そのあたりの里山や裏山程度なら、案ずることもなくすぐにでも取りかかれる。
しかし日本百名山は少なくても我が国の山岳を代表するような山々であれば、素人がそうやすやすと登れるほど簡単ではないだろう。

ターゲットが決まったときから、私は山に関する書物を買いあさり読みふけるようになった。時間のある時は神田の古書店を歩き回ったことも、5回や10回ではない。 何十年も前の登山家の著書や、最近の山行記、新田次郎他の山岳小説、時間のある限り手当たり次第に目を通しながら、だんだんと登山と言うものについて理解が深まっていった。
山に関する書籍は当時のものを捨て切れずに、今でも保存しているがかなりの量になる。

言って見ればすべて独学で登山の基本を身につけていった。一方机上だけで実際にどれだけ役に立つかという不安はぬぐえなかったのも事実である。

自分なりに知識面でノウハウ習得を進めながら、一人でどの程度の山歩きが可能か、それを試すために東京近郊の丹沢山系へ出かけた。最初は長男が連れだってくれた。 秦野市大倉から塔ケ岳、丹沢山、行者岳を経由して大倉へ下山という比較的長いコースを、ガイドブックの7割ほどの時間で歩いたが、それほどの疲れは感じなかった。

登山用具の店を覗いたりして、登山靴やザックをはじめとする道具もそろえ、次第に登山への準備が整っていった。

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  つづく
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