(登山のコーナー) (66)日本百名山への第一歩 |
またやってしまった さまざまな感情の浮き沈みを繰り返ししながらも、手術から1年9ヶ月が過ぎて人工肛門にまつわる日常管理もすっかりなれてきた。 なかなか軌道に乗らなくて、焦ったりあるいは放り出したくなったりもした洗腸の方も、習うより慣れろで次第にコツを覚え、丸2日間ほどは排便のない安定した状態を保っている。 その日は早起きして洗腸を済ませた。ストーマ周辺が少しカブレ気味だったのでパウチを着けないで出勤した。 東京駅で電車を降り勤務先へ向かった。このころ職場のオフィスが大手町から日本橋に変わって、東京駅から少し遠くなったが、健康のために勤務先まで約20分余の距離を歩くことにしていた。 歩きだしてすぐ、どうもお腹の様子がいつもと違う。悪い予感がかすめた。 しばらくすると腹部に生温かいものを感じる。 しまった、排便だ。洗腸をした後で安心していたが、大腸内にまだ残っていたものが水様状で出てきたのだ。 ストーマにはティッシュを四つ折りしたものと、その上を15センチ四方くらいに切った紙オムツを当てがっているだけである。 太腿の方までたれていかないように祈りながら、服の上から押さえつける。 洗腸の残り分だけだからそれほど大量のものではないものの、下着等が汚物でかなり汚れてしまうだろうし放っておくわけにはいかない。 通いなれた道で、すぐ先に公衆トイレのあるのを知っていた。 下着とそれにズボンも汚れているかもしれないが、トイレの中で応急の処置さえすれば、後は職場へ着いてから予備の衣服に着替えて何とかなる。 ところがそのトイレはおばさんが清掃を始めたところ。しばらくは使用出来ない。 これには参ったが手の打ちようがない。ビルの陰で裸になるわけにもいかない。 職場まであと10数分、仕方なく手の平で紙オムツのあたりを押さえたまま、排泄物が広がらないよう注意深く、不自然な姿勢で職場へと向かった。 たった10数分の距離なのに実に長かった。 慣れて来た頃に誰でもおかす失敗であった。 洗腸してから3時間前後は、やはり要注意時間帯であることを認識した出来事だった。 このようなアクシデントもたまにはあったが、概ね大きなトラブルも起こらずに勤務の方も順調に過ぎていた。 山へ向けて行動開始 妻と大菩薩嶺へ登った翌10月(1986年=昭和61年)。 いよいよ日本百名山踏破へ向けて走り出した。そう、『歩き』出したというより『走り』出しと言うのが適当だった。 もう迷うことはない。目標は「最後の人生を精いっぱい生きた証」そして「生きがい」として日本百名山を一つでも多く登ると言うことである。 的は絞られた。長くはない残りの人生を、掲げた目標に向けて燃焼して行けばいい。 目標を持つと言うことがこんなに生き生きと出来るものなのか。 1000日連続ジョギングに向かっていたときのように、体の芯から湧き出て来るような力を感じていた。 人から押し付けられてやるのではない。 自分から探し出し、難しいかもしれないが進んでやってみようと決心した目標は、私の命をも蘇らせることにつながって行った。 谷川岳へ 10月10日、まず一人で谷川岳(1963m)を目指した。 かつて同じこの時期、不意の寒波で何人もの遭難犠牲者を出した山であり、世界一遭難死者数の多い山でもある。 登山ノウハウ幼稚園生の私は「谷川岳」というだけで、かなりの緊張を感じていた。 前夜就寝前に洗腸。 マイカーを飛ばして谷川岳ローブウエイ乗場付近の駐車場から西黒尾根をコースに取った。 標高差は1200メートルほどだろうか。緩むことなく突き上げて行くきつい登りだったが、山頂トマの耳まで2時間40分、休憩なしで登り切った。 ときあたかも紅葉のジャストタイミング。ナナカマドやサラサドウダンなどの深紅の紅葉が見事に山肌を飾っていた。 天候はこれ以上は望めないような秋特有の澄み切った紺碧の空。取り巻く山々のパノラマが見事だ。だがどの山も名前を言えるものはない。ただ何となく「いい眺めだなあ」と見まわすのみである。 山頂さえ踏めばあとは用はない。山頂を踏むことだけが目的だった。 腰をおろすこともなくすぐに踵を返して下山にかかる。 万一排便が始まったら困る。とにかく早く家に帰り着きたいという気持が先走っていた。 天神尾根を天神平まで下り、ここからロープウエイで下山した。 まず最初の1座が無事登頂できた。排便のトラブルもなかった。 以前のものも加え、これで日本百名山13座目となったわけだ。 出かける前、谷川岳という名前だけでかなり緊張したが、別に案ずるほどのことはなかった。 こんな調子でこの先も登っていけばいいのだ。 帰宅後、購入したばかりのワープロを使い、慣れないキー操作で簡単な記録を作成した。 しかし不慣れのため、考えていたような山行の詳細や心の動き、生きた証を残すようなところまで綴るのは無理だった。 山小屋一泊で 次の山をどこにするか、検討を重ねた。それは楽しい作業で時間のたつのも忘れるほどだった。 これからのために山小屋一泊の体験もしておきたい。 ガイドブック等を参考にして埼玉県の両神山(1723m)を選んでみた。 西武秩父駅から納宮までバス、ここから歩いて初日は清滝小屋泊り。翌日両神山の山頂を踏み、梵天尾根経由で中双里へ下山というコースを計画した。 山は秋も深まった11月初旬、空模様の怪しい中を出発。 登山口の納宮でバスを降りたが他に登山者はゼロ。 少し不安を感じながら清滝小屋を目指した。 万一を考えて山小屋ではパウチを着けて就寝したが、幸い排便はなく夜が明けた。パウチによるかゆみなども起こらなかった。 朝食を済ますとパウチは着けたままで山小屋を飛び出す。とにかく早く山頂を踏んで帰らなくては・・・。気が焦る。帰りもパスと電車。何か排便トラブルがあると辛い思いをしなくてはならない。早く帰るに越したことはない。 あいにくの曇り空で両神山頂からの眺望は得られなかったが、山頂さえ踏むことができればそれで十分だった。 山頂にとどまる時間も惜しんで中双里への長いコースを足を速めて下っていった。 落葉樹林は一面厚く落葉が林床を覆いつくして、登山道との区別がつかないほどで、そんな中誤ってコースを外して薮の中へと入っていってしまった。 今振り返ると恥ずかしいようなミスである。幸い深入りしなかったので、難無く登山道へ戻ることができた。 何か起きたら困る、何か起きたら困る。そんな不安を重しのように背負ったこの両神山登山も、結局人工肛門に関して案ずるようなことは何も起こらなかった。 これで2つ目の山名を消し込むことができた。 “よ〜し、また一つ終わった”充実感と言おうか、喜びが広がる。 山登りを楽しむのではない。それは「一つづつ攻め落とす」喜びだった。 数をこなせない ジョギングにのめりこんだ時に似て、またはまり込みかけていたようだ。 しかし10月に1座、11月も1座、こんなペースではあと1年余の余命があるとしても、とても数はこなせない。冬を迎えて登れる山も限られている。 追い立てられるような焦燥感に駆り立てられて、冬の間に私でも登れそうな山をチェックしてみた。 関東周辺にそんな対象はほとんどなかった。 12月に入り、さらに足早に日は過ぎて行く。 東京の市街にも珍しく雪が積もった。その翌日奥多摩の大岳山(1267m)へ出かけた。百名山ではないが、雪の山がどんなものかを体験して見るためである。奥多摩駅から歩きはじめた。 標高が上がって行くと、所によっては踝の上まで積雪がある。 積雪の山を歩くのは初めての経験であったが、長いことスキーをやっていたせいか、雪への恐怖感のようなものは比較的少なかった。 雪で埋まった登山道がわかりにくかったりしたが、迷うこともなく山頂へ達し、帰りは馬頭刈尾根から十里木へと下った。 積雪の山、寒い時期の山での服装等をこの山行で少しだが体験できた。 不安と背中合わせのこんな経験を少しづつ重ねて、徐々に山登りのノウハウが身について行った。 百名山踏破を決心してから年末までの3ヵ月、結局登れたのは2座に過ぎなかった。 どのように数を稼いで行くか、そんなことばかり考えるようになっていた。 走り出したらとにかく目標に向かって脇目もふらず猛進、どうやら私の本性が目を覚ましてきたようだ。 もどる つづく |
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