(登山のコーナー)
(71)生きた証の記録

拍車がかかる
7月に入ると会津駒ケ岳、尾瀬燧岳、富士山、尾瀬至仏山(妻同行)と毎週の登山で数を稼ぎ、この月までで15山の登頂となった。手術以前の山も合わせれば27座となった。

私の登山は「ただひたすら山頂を踏むこと」に終始していた。
駆けるようにして山頂を踏み、そして駆けるようにして山を下りてきた。
山頂でゆっくりと展望を楽しむと言うこともなかった。排便のないうちに早く家に帰る。そして一つでも多く数を稼ぐ。
「山頂を踏む」ことが「癌に克つ」ことと同義語であった。

ようやく日本百名山踏破への軌道に乗りだしたようだ。
百名山への挑戦は「癌との戦い」以外に、もう一つ大事な別の仕事があった。
残り少ないかもしれない命を、最後の時にどのように燃焼させたのか、その生きざまを山行記録と言う形で克明に残し、これを私の『生きた証』にしたいという仕事である。

山行記録の整理
ワープロも少しづつ使えるようになってきた。 山行記録として、登頂年月日をはじめ、所在地、同行者、天候、コースタイム、略図、山紀行文の他、記念に撮ってきた写真など、整理の方もこまめにしていた。
溜まったものをどのようにまとめようかと思案していたとき、登山雑誌に簡単な製本方法が載っていた。渋谷の東急ハンズで材料一式が手に入った。
大小27回の山行資料を教本どおりに綴じてみると、立派な出来栄えに自分でも驚くほどのものとなった。
表紙はA4版の芯ボール紙に装丁布を張り、本として仕上げると、ハードカバーらしい重量感があって、書店に並べても違和感がないほどだった。

1冊目が仕上がった。
記録集のネーミングは『山走山歩記』とした。
山を、ときに走って登り、ときに歩いて登った記録と言う意味である。

<以下はごく要約抜粋したものですが、序文としてしたためたものです>

   50歳直前、まさに私は五十にして天命を知ったのであった。
   晴天の霹靂、予想だにしない出来事だった。 癌だったのである。
   風邪ひとつ引かない体に信じられないことであった。
   絶望的な人工肛門のショックに加え、癌による死の恐怖におの
   のく日々が始まった。

   「命には限りがある」ことを知り、残された日々を燃焼し尽くせるよ
   うな何かが欲しかった。

   まだ1年や2年は生きられそうに思えた。

   そんな思いの中で日本百名山踏破が生き甲斐、目標となってい
   った。
   百名山の中に、手術前に登った山が12ある。残り88座を登り終
   わるまでこの「命」は待ってはくれないだろう。
   一つでも多く登れればそれでいい。

   命との駆け比べのようにして始まった登山が、一つ、二つと増えて
   行く喜びは譬えようもなく嬉しい。
   一つ山頂を極めるたびに、癌巣に強力な爆弾を打ち込んだような
   快感がある。
   癌、そして限りある命を知り、いつまで山を登れるかわからないが、
   山歩きがつづけられる限り生きた証としてその記録を綴っていきた
   い。

   限られた残り時間の中で、駆け足で登って来ることもある。
   これは山々を走り、また歩いた私の最後の記録である。


そしてこの記録集は1999年までの12年間で51冊になっています。

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