(登山のコーナー)
(76)百名山東奔西走

春が来た
日本百名山へ向けて再び活動を開始した。
幸いなことに、この年の2月から週休2日制が取り入れられた。自分の時間を寸時でも余計に欲しいときに、願ってもない贈り物であった。
2連休になれば少し遠方でも登ることのできる山がたくさんある。あるいは同じ方向の山を効率よく2座登って来ることもできる。 私はついている。チャンス到来である。展望が大きく開けてきたのを感じた。

夢がふくらむ
このころ「一つでも多く」と言う夢は「百名山全部を」と言う分不相応な夢に大きく変っていった。
あと半年や1年でこの体が朽ちるとは考えられない。まだまだ大丈夫だ。

思い切ってゴールデンウイークに九州5座を登ることが出来ないか検討して見た。
たった一人で、途中人工肛門に関するトラブルがあったら対応出来るか、以前洗腸中に失神したこともある。ホテル等で一人で行う洗腸に問題はないのか。自宅で行うのと同じようにスムーズに出来るだろうか・・・・ 5日間という長期の遠征は私にはたいへんな冒険であり、考えるだけで緊張によるストレスが充満していく。とても「そのときはそのとき」という気楽な気分にはなれなかった。
何度も計画を練り直し、検討を重ねたあげくに実行を決心した。

不安を抱えて九州へ
洗腸用具一式、予備のストーマ用品なども多目に用意して、かなり大きな荷物になった。
不安を抱えて羽田空港を後に別府へと飛び立った。

1989.04.27 東京から大分へ(ビジネスホテル・・洗腸)
1989.04.28 祖母山 阿蘇山(仙酔峡野営)
     29 久住山 由布岳(ビジネスホテル・・洗腸)
      30 韓国岳      (観光ホテル・・・・・洗腸)
    05.01 開聞岳      (開聞の安旅館)
     02 高千穂峰 東京へ

初日。早朝から祖母岳を登頂、下山するとレンタカーですぐに阿蘇へ移動、仙酔峡から高岳を目指したが、1日で2山目となるとさすがに足が重かった。一歩一歩歩数を数えるようにして登った。
心配したホテルでの洗腸も、自宅と同様にうまく済ますことが出来た。
日程を終って鹿児島空港から、案じている妻に予定通り無事登り終ったことを電話で報告した。 電話をしながら「あれほど心配し、緊張して出かけた来たが、予定通り無事に終ることができた」そんな感慨が湧きあがり、胸に熱いものが込み上げて声が詰まった。

梅雨は北の山へ
6月、梅雨に入った。
関東が雨でも東北は天気と言うことが多いことに気づいた。そこで連日雨の東京を後にして秋田県の鳥海山へ向かった。
東京渋谷から酒田市行きの夜行バスを利用。現地では鉾立までの季節パスはまだ運行されておらず、象潟駅からタクシーで登山口の鉾立へと向かった。 登山道はかなりの部分が残雪に覆われ、コースの不安もあったが、迷うことなく外輪山を経由して山頂へ達することができた。
雪の解けだした日当たりの斜面には、ハクサンイチゲやミヤマキンバイなどの群落が咲き競い、ここでも私の心は新鮮な感動にときめいた。
下山してその日の夜行バスで再び東京へと向かった。

2週間置いて土日、今度は青森行き夜行急行列車「津軽」を使って八甲田山と岩木山へ。 特に岩木山登頂は体調不良、嶽温泉からの長い登りがきつく、また山頂から下山にとった百沢コースが、雪の固く締まった急傾斜の沢で、布製のキャラバンシューズでは滑り止めもキックもまったく効かないまま、滑落の不安を抱えた厳しい下りとなってしまった。

翌週(7月1日)は新潟・群馬県境の平ケ岳へ。
なだらかに広がる山頂周辺はまだ大きな雪田が残っている。池塘、高山植物、尾瀬周辺や越後の山々の展望、私の心は山の魅力に決定的に囚われていた。
勿論癌との戦いという意気込みには支えられていたが、山の魅力もまた容赦なく私の心を呑み込もうとしていた。

この7月も
 7/1 平ケ岳(新潟・群馬)・・・鷹の巣から日帰り
 7/8 蔵王岳(山形・宮城)・・・土日で蔵王、月山へ
 7/9 月山(山形)
 7/19 奥穂高岳(長野・岐阜)・・・上高地から日帰り
 7/22 仙丈ケ岳(長野・山梨)・・・北沢峠から
 7/23 甲斐駒ケ岳(長野・山梨)・・・仙水小屋から
 7/28 大朝日岳(山形)・・・朝日鉱泉から。無人の竜門小屋泊
(大朝日岳以外はマイカー利用)


と、歩きでのある山を毎週末のように登って、登頂数はどんどん増えていった。

北海道へ
8月、会社の夏休みがある。貴重な長期休暇をいかに活用すべきか。もし百名山を本当に踏破するなら、北海道の山も登らなくてはならない。北海道には9座ある。
今は転移の兆候がなくても、いつそれが現実のものとなるかわからない。今のうちだ。思い切って北海道の山へ足を延ばした。

妻も同行。 女満別空港に降り立ち、レンタカーを使って即日斜里岳へ。

  8/12 羽田から女満別空港へ。斜里岳
  8/13 羅臼岳・・・・木下小屋から往復
  8/14 雌阿寒岳・・・野中温泉から
  8/15 大雪旭岳・・・黒岳−旭岳−姿見の池
  8/16 トムラウシ・・・天人峡から。台風のためヒサゴ沼分岐で引き返す。
  8/18 利尻山・・・鴛泊港から歩く。日帰り
  8/19 稚内から東京へ

初日、斜里岳登山口の清岳荘に着いたのが12時40分、それから2時間50分の超特急で山頂を往復。
トムラウシ山は天人峡から日帰り往復を試みた。標準タイム17時間、たっぶり2日のコースである。台風接近の中を登ったが、猛烈な風雨に恐怖を感じ、ヒサゴ沼分岐で引き返した。
利尻山は、早朝稚内から鴛泊港へ。9時20分、海抜0メートルの港から山頂を目指した。連日にわたる登山で疲労が溜まってはいたが、往復所要6時間15分で鴛泊港迄戻った。
体力に任せての強引な登山を続けた6日間だった。
この北海道山行で、妻が一緒に歩いたのは大雪旭岳のみであったが、文句も言わずに付き合ってくれたことに感謝。
結局北海道にある100名山9座のうち、今回登れたのは斜里岳、羅臼岳、雌阿寒岳、旭岳、利尻山の5座。残りがまだ4座あるが、このときの交通費、宿泊費合わせて旅行会社に支払った費用50万円(2人分)を考えると、来年もう一度北海道を計画しても家計が持たない。何か方法を考えなくてはいけない。

強風雨の北アルプスなど
日本百名山踏破は、体力より何より、まず時間と経費であることを痛感してきた。
北海道から戻ってからも、休むことなく次々と百名山の頂を、あさるように登り続けた。

大町市七倉から入山、3大急登の一つ「ブナ立尾根」から水晶岳を目指したが、山小屋の管理人が台風のとき以上の荒れ方という悪天にはばまれ、山頂を踏むことができなかった。
このときはじめて「遭難」が脳裏をかすめた。たたきつける雨と風。岩稜の痩せ尾根では烈風の襲来を岩にしがみついてやり過ごす。3000メートル近い稜線で体は冷えてゆく。悪天の中、誰一人或歩いている人もない。七倉から水晶小山まで標準15時間のところを7時間45分で歩き、小屋へ転がり込んだ。このときばかりは管理人もあきれていた。

10月下旬、みぞれまじりの凍るような寒さの中を、たった一人南アルプス光岳を登頂したときも辛かった。指先が凍えて水筒の蓋が取れない。泊まった茶臼小屋でのたった一人の夜、風の音が女のささやく声に聞こえる。背筋が凍り付いて寝付けなかった。

四国へ
四国には日本百名山が二つある。「石鎚山・剣山」の2座。
11月に出かけた。アクセスは東京から高松行きの高速バスを利用。費用のこともあって、タクシーはめったに使わないことにしていたが、このときは西条駅から相乗を勧められて珍しくタクシーに乗った。
ビジネスホテルに宿泊し、帰りもまた夜行バスだった。
疲れより費用を少しでも安くという考えが優先していたのである。

屋久島へ
この年のしめくくりは屋久島の宮の浦岳となった。
12月23日、飛行機を鹿児島で乗り換えて屋久島へ。さらにバス、タクシーを乗り継いで淀川登山口へ。
その日は無人の淀川小屋へ泊る。私一人だけ。寝袋の上をネズミが駆け回る。夜半から雪となる。
目覚めるとみぞれ模様の雨が降っている。出発すべきかどうかしばらくためらったが、再びここまで出直すことができるかどうかわからない。思い切って出発した。登るにしたがい新雪を踏むようになる。
濃いガス、下が空洞となったモナカ状の積雪を頻繁に踏み抜き、体力消耗が進む。まさか亜熱帯に近い南の島で、雪があるとは思いもしなかった。ガスでコースがわからず何回も立ち止まる。
巨岩が堆積し、寒風の吹きすさぶ山頂にやっとの思いで到着した。クリスマスイブの日だった。

この年36座を消化する
この1年、実によく登った。いや登ることができた。

 1989年 1月 筑波山
      4月 恵那山
      5月 祖母山・阿蘇山・久住山・韓国岳・開聞岳・四阿山
         草津白根山・浅間山
      6月 那須岳・鳥海山・八甲田山・岩木山
      7月 平ケ岳、蔵王山・月山・奥穂高岳・仙丈ケ岳・甲斐駒ケ岳
         大朝日岳
      8月 斜里岳・羅臼岳・阿寒岳・大雪旭岳・利尻山
      9月 鷲羽岳・木曽駒ケ岳・空木岳・焼岳
     10月 御岳山・雨飾山・光岳
     11月 石鎚山・剣山
     12月 宮の浦岳

最北の利尻山、最南の屋久島宮の浦岳、九州、四国、北海道の山。 またJR北端の稚内駅にも降りたったし、ほぼ最南端の開聞駅にも降り立った。 この1年は、それこそ全国を股にかけて飛び歩き、百名山36座の登頂を果たしたのであった。 これは予想もしなかったすごい成果であった。
そして数えてみると 日本百名山登頂の山は合わせて79座になっていた。まさに私にとっては「驚異」そのものであった。
『命ある間に30座くらいは・・・』という夢は、今や全山踏破という目標に変っていた。
夜寝床に入ると、登った日本百名山をそらで順番に思い出しながら、それを睡眠剤のようにして寝入るのが習慣になっていた。 私はドップリと山歩きの世界へ浸かりこんでいた。

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