昨夜のアリバイ

 〜誰が犯人かは作者も知らない〜

***1***

 

 スターデッキというのが、デッキのなかでも最上階で、格段に見晴らしがいい。

 火村とアリスは、夕食時のパーティのまえに、そこに上がってみることにした。

 360度見渡す限りの大海原。太陽はもう傾いているものの、それでも水面に反射して、目が痛いほどに眩しい。

 髪をばさばさにして、シャツをはためかせる強い風も、心地いい。潮の香りを胸一杯に吸い込むと、懐かしいような感傷にとらわれる。

「すべての生命は、海から生まれた。ってのも、満更嘘やないんやろうな」

 風に負けまいと、大きな声で言ったアリスに、火村は海を眺めたままの姿勢で答える。

「ミジンコかアメーバーだった頃のことでも思い出したのか?」

「いくら俺かて、そこまでの記憶力はないわ」

「なら、タコかイカあたりか?」

 よほど暇なのか、火村がつまらないことで食い下がる。

 だが、機嫌のいいアリスは、つい言ってしまう。

「せやな、人魚くらいかな」

 ずっと、海に視線を遊ばせていた助教授が、その台詞でアリスを振り返る。

「おまえ、言うにことかいて、人魚だと?」

 不幸にも、想像をたくましくしてしまった火村は、あまりのおかしさに腹を抱えて爆笑した。両胸に、貝殻の胸あてなんかついてたら、どうしよう? などと、いつか見た人魚姫の絵本の挿絵を思い出したのだろう。

「せっかく、おまえの与太につきおうてやったのに」

 アリスは、自分も笑いながらも拗ねたように言って、さきに階段を下りようとする。

「まぁ、待てって。まだ、いいんじゃ・・・・・・」

 ないか、まで言えず、火村はアリスの腕を掴んだまま黙り込む。

 デッキの下から、女性の甲高い声が聞こえてきたのだ。

「冗談じゃないわ!! いったい、何様のつもりなの? 婚約なんか、親が勝手に決めたことじゃない。そんなのに、今時従おうなんて、あなたの頭は百年古いわよ!!!!」

 声の高さに最初は驚いた。けれど、その内容にはもっと驚かされて、火村とアリスは顔を見合わせた。

 続く男の声はくぐもっていて、よく聞こえない。ぼそぼそと、なにか弁解しているらしいようすが、かすかに伝わってくるだけだ。

「私は、結婚相手くらい自力で探すわよ。今から船を降りるのは無理でも、なるべくそのうざったい顔、私の視界には入らないようにしてよね」

 続く辛らつな台詞のあとで、ハイヒールが甲板を叩く高い音とともに、女性は退場していったようだ。

 無意識のうちにつめていた息を吐いて、アリスがこんどこそ階段を下りようとする。

「まだ、男のほうはそこらにいるんじゃねぇか?」

「ええやろ、じろじろ観察したりせえへんよ」

 二人は、そんなことを話しながらひとつ下のデッキへ降りた。スターデッキは、景色は最高なのだが、風が強過ぎる。

 降りきってみると、階段の向こう側に若い男性と、年配の男性が立ち話をしていた。

 年配のほうが、若いほうに、ぺこぺこと謝っている。

「―――で、勝美お嬢様は気が立っておられるんです。でも、決して本心じゃありません。どうか、本気にしないでください」

「いいんです。本気ですよ、あれは。あなただって、聞こえたんでしょう?」

 若い男は、おだやかな声で答えている。

「本気だと、信じようとしているだけなんですよ。だって、隆ぼっちゃんだって・・・失礼しました。宇藤さまもご存知でしょう。お小さい頃には、あんなに懐かれていて」

「よく遊びに来る親の親友の息子として、顔なじみの遊び相手としてなら、確かに都合が良かったんでしょう。でも、今は誰が見ても不釣合いです。僕は気にしてませんから、どうか佐竹さんも――」

 その先は、聞こえなかった。二人が会話しながら遠ざかっていったからだ。

 若い男性は、宇藤隆という名前らしい。

「どっかで、聞いたような名前やな」

「招待客がどんなもんか、出版社から聞いてきたんじゃないのか?」

 そう指摘され、アリスはしばし考える。

「そうやったな。ああ、あれだ。宇藤地所。この船の運航会社の株主やったと思う。そこの、息子やないか?」

 ちらりと見えたその男は、話をしていた年配の男よりずっと小柄で、地味なスーツ姿でおとなしげなようすだった。

「ふーん。大企業のお坊ちゃんには、親の決めた婚約者がいる、か。なんか、お約束な話だなぁ」

「そしたら、その婚約者って古藤田勝美やな」

「古藤田財閥のお嬢様ってわけか?」

 勝美は財界人として多くのパーティに出席しながら、毎回別の男性にエスコートさせている、というので週刊誌やタブロイド誌をにぎわせている。単なるお金持ちのお嬢様がプレイガールだから噂になっている、わけではない。そのお嬢様が、輝くばかりの美貌とスタイルの両方ともを誇っているからだ。

 お嬢様は、かなりそれを鼻にかける性格らしく、女性からはものすごい嫌われようで、勝美バッシングの記事が載ると、その週刊誌はいつもの週よりも3割増で売れる、という噂もあるほどだ。

「火村が知ってるやなんて、意外やな」

「お嬢様のことは知らねぇよ。ただ、古藤田財閥ってのはバブル崩壊後に通信関連・・・・・・主に携帯電話だろうが・・・・・・で大成功して、携帯成金なんて呼ばれてるような企業だろう?」

 アリスは、そこでふと立ち止まり、火村の顔をまじまじと見る。

「ん? どうした?」

「いや、もしかしたらほんまにそれしか知らんのかな? って、思って」

「知らなくて悪いか?」

「別に悪くはないよ。けど、――」

 今をときめく噂の美女やないか、と言いかけてやめた。相手は火村なのだ。美女に興味がなくても仕方がないし、それを言ったら、どんな逆襲が待っているか、知れたものではない。

 アリスは軽く咳払いして、無理矢理続ける。

「今は芸能人でもなんでもない、おばはんやお嬢ちゃんがテレビで喧嘩したりすると、マスコミがこぞって注目する時代らしいから」

「よほど、暇なんだろう」

「せやな。そんなんが、トップニュースのうちは、日本が平和やって証拠やもんな」

「で、本当は、今、なんて言おうとしたんだ?」

 うまくごまかせたと思った矢先に、そう聞かれてアリスはそっぽを向いてとぼける。

「なんのことやろう?」

「まぁ、いいさ。貸しにしといてやるよ。今晩、ベッドでしっかり取り立てるからな」

 周りに誰もいないのが解っていて、それでも火村はアリスの耳元で囁いた。

「パーティの料理はなんやろうなぁ? うまいとええけどな」

 アリスは、聞こえなかったフリでさきを歩く。

「そうだな。それがなによりメインイベントなんだからな」

 そんな呑気な会話を交わす二人を、水平線に没しかけた夕陽があかく照らしていた。

つづく(2000.3.26)

 

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