〜誰が犯人かは作者も知らない〜
スターデッキというのが、デッキのなかでも最上階で、格段に見晴らしがいい。
火村とアリスは、夕食時のパーティのまえに、そこに上がってみることにした。
360度見渡す限りの大海原。太陽はもう傾いているものの、それでも水面に反射して、目が痛いほどに眩しい。
髪をばさばさにして、シャツをはためかせる強い風も、心地いい。潮の香りを胸一杯に吸い込むと、懐かしいような感傷にとらわれる。
「すべての生命は、海から生まれた。ってのも、満更嘘やないんやろうな」
風に負けまいと、大きな声で言ったアリスに、火村は海を眺めたままの姿勢で答える。
「ミジンコかアメーバーだった頃のことでも思い出したのか?」
「いくら俺かて、そこまでの記憶力はないわ」
「なら、タコかイカあたりか?」
よほど暇なのか、火村がつまらないことで食い下がる。
だが、機嫌のいいアリスは、つい言ってしまう。
「せやな、人魚くらいかな」
ずっと、海に視線を遊ばせていた助教授が、その台詞でアリスを振り返る。
「おまえ、言うにことかいて、人魚だと?」
不幸にも、想像をたくましくしてしまった火村は、あまりのおかしさに腹を抱えて爆笑した。両胸に、貝殻の胸あてなんかついてたら、どうしよう? などと、いつか見た人魚姫の絵本の挿絵を思い出したのだろう。
「せっかく、おまえの与太につきおうてやったのに」
アリスは、自分も笑いながらも拗ねたように言って、さきに階段を下りようとする。
「まぁ、待てって。まだ、いいんじゃ・・・・・・」
ないか、まで言えず、火村はアリスの腕を掴んだまま黙り込む。
デッキの下から、女性の甲高い声が聞こえてきたのだ。
「冗談じゃないわ!! いったい、何様のつもりなの? 婚約なんか、親が勝手に決めたことじゃない。そんなのに、今時従おうなんて、あなたの頭は百年古いわよ!!!!」
声の高さに最初は驚いた。けれど、その内容にはもっと驚かされて、火村とアリスは顔を見合わせた。
続く男の声はくぐもっていて、よく聞こえない。ぼそぼそと、なにか弁解しているらしいようすが、かすかに伝わってくるだけだ。
「私は、結婚相手くらい自力で探すわよ。今から船を降りるのは無理でも、なるべくそのうざったい顔、私の視界には入らないようにしてよね」
続く辛らつな台詞のあとで、ハイヒールが甲板を叩く高い音とともに、女性は退場していったようだ。
無意識のうちにつめていた息を吐いて、アリスがこんどこそ階段を下りようとする。
「まだ、男のほうはそこらにいるんじゃねぇか?」
「ええやろ、じろじろ観察したりせえへんよ」
二人は、そんなことを話しながらひとつ下のデッキへ降りた。スターデッキは、景色は最高なのだが、風が強過ぎる。
降りきってみると、階段の向こう側に若い男性と、年配の男性が立ち話をしていた。
年配のほうが、若いほうに、ぺこぺこと謝っている。
「―――で、勝美お嬢様は気が立っておられるんです。でも、決して本心じゃありません。どうか、本気にしないでください」
「いいんです。本気ですよ、あれは。あなただって、聞こえたんでしょう?」
若い男は、おだやかな声で答えている。
「本気だと、信じようとしているだけなんですよ。だって、隆ぼっちゃんだって・・・失礼しました。宇藤さまもご存知でしょう。お小さい頃には、あんなに懐かれていて」
「よく遊びに来る親の親友の息子として、顔なじみの遊び相手としてなら、確かに都合が良かったんでしょう。でも、今は誰が見ても不釣合いです。僕は気にしてませんから、どうか佐竹さんも――」
その先は、聞こえなかった。二人が会話しながら遠ざかっていったからだ。
若い男性は、宇藤隆という名前らしい。
「どっかで、聞いたような名前やな」
「招待客がどんなもんか、出版社から聞いてきたんじゃないのか?」
そう指摘され、アリスはしばし考える。
「そうやったな。ああ、あれだ。宇藤地所。この船の運航会社の株主やったと思う。そこの、息子やないか?」
ちらりと見えたその男は、話をしていた年配の男よりずっと小柄で、地味なスーツ姿でおとなしげなようすだった。
「ふーん。大企業のお坊ちゃんには、親の決めた婚約者がいる、か。なんか、お約束な話だなぁ」
「そしたら、その婚約者って古藤田勝美やな」
「古藤田財閥のお嬢様ってわけか?」
勝美は財界人として多くのパーティに出席しながら、毎回別の男性にエスコートさせている、というので週刊誌やタブロイド誌をにぎわせている。単なるお金持ちのお嬢様がプレイガールだから噂になっている、わけではない。そのお嬢様が、輝くばかりの美貌とスタイルの両方ともを誇っているからだ。
お嬢様は、かなりそれを鼻にかける性格らしく、女性からはものすごい嫌われようで、勝美バッシングの記事が載ると、その週刊誌はいつもの週よりも3割増で売れる、という噂もあるほどだ。
「火村が知ってるやなんて、意外やな」
「お嬢様のことは知らねぇよ。ただ、古藤田財閥ってのはバブル崩壊後に通信関連・・・・・・主に携帯電話だろうが・・・・・・で大成功して、携帯成金なんて呼ばれてるような企業だろう?」
アリスは、そこでふと立ち止まり、火村の顔をまじまじと見る。
「ん? どうした?」
「いや、もしかしたらほんまにそれしか知らんのかな? って、思って」
「知らなくて悪いか?」
「別に悪くはないよ。けど、――」
今をときめく噂の美女やないか、と言いかけてやめた。相手は火村なのだ。美女に興味がなくても仕方がないし、それを言ったら、どんな逆襲が待っているか、知れたものではない。
アリスは軽く咳払いして、無理矢理続ける。
「今は芸能人でもなんでもない、おばはんやお嬢ちゃんがテレビで喧嘩したりすると、マスコミがこぞって注目する時代らしいから」
「よほど、暇なんだろう」
「せやな。そんなんが、トップニュースのうちは、日本が平和やって証拠やもんな」
「で、本当は、今、なんて言おうとしたんだ?」
うまくごまかせたと思った矢先に、そう聞かれてアリスはそっぽを向いてとぼける。
「なんのことやろう?」
「まぁ、いいさ。貸しにしといてやるよ。今晩、ベッドでしっかり取り立てるからな」
周りに誰もいないのが解っていて、それでも火村はアリスの耳元で囁いた。
「パーティの料理はなんやろうなぁ? うまいとええけどな」
アリスは、聞こえなかったフリでさきを歩く。
「そうだな。それがなによりメインイベントなんだからな」
そんな呑気な会話を交わす二人を、水平線に没しかけた夕陽があかく照らしていた。
つづく(2000.3.26)