〜誰が犯人かは作者も知らない〜
「すみませんが、火を貸していただけますか?」
デッキで、海に沈む夕陽をながめていると、そう声をかける者があった。
振り返ると、初老の紳士だった。黒い礼装に蝶ネクタイ。小柄だが、すらりと背が真っ直ぐに伸びていて、よく似合っている。もうすっかりパーティへの準備万端、といったいでたちである。
紳士はアリスの側から声をかけてきたのだが、ライターは火村しか持っていない。
自然なしぐさで、アリスが場所をゆずり、火村がまえに出てライターに火をつけ、差し出した。
「ありがとう」
人の良さそうな笑みを浮かべ、紳士が煙草を近づける。けれど、風にさらわれて、煙草につくまえに火がかき消されてしまう。
アリスが、なにげなく風上に立つ。その背中で、火村がまたカチリとライターを鳴らす。
「ああ、こりゃ恐縮です」
こんどは、簡単に火がついた。
「どういたしまして」
紳士に頷く火村の隣で、アリスがしきりと首をひねっている。
「どうしたんだ?」
アリスは、曖昧な表情を浮かべて紳士に尋ねる。
「もしかして、声優さんやないですか?」
「セイユー?」
火村は、スーパーの名前しか思い浮かばなかったようだ。けれど、紳士のほうはアリスの質問をしっかり漢字で理解してくれた。ちょっと照れ笑いを浮かべて、頭に手をやる。
「この声に、聞き覚えがあるとおっしゃるのでしょう? でも、声優ではないんですよ」
「そう言えば、確かに・・・・・・」
火村も、どこかで聞いた声だと気づいたようだ。顔に見覚えはない。なのに、声だけが耳に馴染んでいる気がする。アリスも、どこで聞いた声なのか、思い出そうと真剣な顔をしているが、解らないようだ。
そんなようすを見てとった、紳士はいたずらっぽい笑みを浮かべて、言った。
「これでどうです? ピッチャー第五球、振りかぶって、投げました。ストライクッ、ツースリー!!」
「ああっ」
火村とアリスは、同時に納得の声をあげる。
「OSAラジオでしたよね。野球中継、よう聞かせてもらってます」
すっかり思い出したらしいアリスが言うと、紳士は少しだけ淋しげな顔になる。
「去年で降りたんですよ。もう、歳ですから。でも、声だけでも覚えていていただけて、嬉しいです」
「そうやったんですか」
よけいなことを言ったかと、アリスがすまなさそうにしていると、華やかなドレス姿の女性たちが三人、なにやら騒ぎたてながら近づいてきた。
「アナウンサーの、野脇耕一郎さんでしょう?」
最初にそう訊いたのは、丸顔でウェーブのかかったふわふわとした髪を真っ赤なリボンで飾り、同じ色の丈の短いドレスを着た20歳そこそこの女性だった。さっき、野球の実況をやって聞かせていたのが、耳に入ったものらしい。
「ええ、そうです」
「わー、そしたらもしかして、野脇勝也さんもこの船に乗ってらっしゃるんですか?」
火村とアリスは完全に無視して、紳士にそう尋ねたのは、赤いドレスの女性の隣で、ピンク地に白い花柄のドレスを着た大柄な女性だった。ストレートの茶髪に金色と白のメッシュがかかっている。
「はい、その辺にいると思いますよ」
「きゃーっ」
一度も声を発しなかったブルーのドレスの女性も混じって、三人で同時に、奇声を発し、当人を探し出そうとでもいうのだろう、すごい勢いで走り去った。
「なんだったんだ、今の?」
「さぁ?」
呆気にとられる火村とアリスの隣で、美味そうに煙草の煙を吐き出しながら、野脇が苦笑している。
「勝也は息子なんですよ。わたしにはよく解らないんですが、ゴーストとかってバンドのボーカルをやってるらしくて。最近、若いお嬢さんに息子のことで声をかけられることが多くなりましてね」
迷惑そうな表情をつくりながらも、どこかで息子の成功を喜んでいるやさしい父親の顔をしている。
「親子やったら、声も似てるんでしょう。こんど、聞かせてもらいます」
社交辞令のつもりでもなく、アリスは言った。
「ありがとうございます。でも、わたしなんかには、ただうるさいだけの音楽で、なにがいいのかよく解りませんけどね」
野脇はそうして、一服し終わったらしく二人に軽く会釈して、その場を離れた。
二人きりになって、火村がまた海のほうに向き直りながら言う。
「こんどな。うん。聞いたことがある、なんて見栄を張らなかっただけ上出来だ」
「ふん。それより、本人も乗っとるゆうことは、もしかしてパーティで歌ったりするんやろうか?」
「さぁ、どうかな。客層は幅広いらしいが、やっぱりお金持ちの老紳士、老婦人が多いだろうこんな豪華客船で、若い奴らしか聞かないようなロックコンサートってのは、あんまりいただけないんじゃないか?」
火村はさっきのミーハー軍団を思い出したのか、いささかうんざりしたようすだ。
「それもそうやな。けど、滅多に見られないもんでもあったほうが、原稿書きやすいんやけどな」
「確かに、普通の豪華客船で、普通のパーティじゃあ、おまえが書かなくても、トラベルライターなんかが書いてる原稿でこと足りるんだろうな。けど、おまえのためのパーティでもないぜ」
「そんなん解ってるわ。なんにもなくても、斬新な切り口をみつけなならん」
推理作家有栖川有栖ならではの、豪華客船乗船記。編集者は当然それを期待しての原稿依頼なのだろうから、アリスのほうでも、なんとか期待に答えようとはりきっているのだ。
「それじゃあ、ちょっと客の共有スペースでものぞいてみっか?」
デッキの眺めがいいからと言って、そこにばかりいたのでは、客船内の設備を堪能することは出来ない。
「せやな。そしたら、プールでも行こか?」
「夕食前にひと泳ぎか? 俺は、見学させてもらう」
「なんや、先生。泳ぎかて得意やろう?」
「月の障りだ」
「なんやそれ。気色悪いこと言って。けど、せっかくだから、俺は泳ごうかな」
「やめとけ」
あっさり却下されて、アリスはむきになる。
「ええやろ。俺は見ただけやなくて、体験したことを原稿にするんやから」
火村は、アリスのシャツの襟元に手をかける。そっと鎖骨のあたりを指差す。
「これでも、泳ぐのか?」
その視線のさきには、赤く鬱血した跡。
アリスは激しく瞬きする。引きつった顔をふるふると横に振って。
「俺も見学にしとくわ」
スターデッキに登るまえに、客室でキスをした。夢中だったので、仔細は忘れていたが、火村は調子にのって、首筋からそのしたのほうにまで跡をつけていたらしい。スーツを着てネクタイをきちんとしめていれば、見える位置ではないのだが。
アリスは胸元をかき寄せながら、火村を睨む。
「まったく、も少しTPOを考えろや」
拒まなかった自分は、すっかり棚の上である。
「考えてるだろ。だから、フルコースは遠慮してやったじゃねぇか」
「当たり前や!!」
会話は、デッキから船内に入り、プールへと続く通路でなされたものだった。途中、何人かが彼らの脇を怪訝な顔で通り過ぎていったが、二人はまったく気にしなかった。
旅の恥はかき捨て。
実践している当人たちは幸せ過ぎて、見せつけられる周囲の不幸などまるで見えていないようだった。
つづく(2000.4.1)