昨夜のアリバイ

 〜誰が犯人かは作者も知らない〜

***4***

 

 夜も更けてくると、客たちは少しずつパーティ会場をあとにし、自室へ、もしくは会場で知り合った異性の部屋へと移動した。

 深夜零時をまわるころには、会場に居残っているのは体力気力ともに余裕のある若い世代の者たちと、酒好きで、こんな美味しい機会を逃してなるものか、とばかりに飲み続ける者くらいだった。

 どちらにも入らない火村とアリスは、とうに自室に戻っている。

 皆がそろそろ寝ようとしている時間になって、船が嫌な揺れ方をしはじめた。大きな船のことだ、酔うほどすごい揺れではない。けれど、はっきり揺れているな、とアルコールの度を越している者以外にはわかる程度の揺れではある。耳をすますと、風と雨の音も聞こえる。風雨で海が荒れはじめているようだ。

 二人があてがわれたスイートルームには、もちろんバスがついている。それも、かなりゆったりとした広さである。けれど、せかされることなく足を伸ばして湯船につかりたいなら、やはり一緒に入るのはやめたほうがいい。

 アリスがそう主張し、二人は順番に風呂をすませた。

 あとから入った火村が濡れた髪をバスタオルで拭いながら部屋に戻ると、アリスは船窓から真っ暗な闇をぼんやりと眺めているところだった。

「なにを見てるんだ?」

 背後に立って声をかけると、アリスは少し眠そうな顔で振り返る。

「なにも。ただ、ちょっと海が荒れてるようやったから」

「海のようすが見えるのか?」

「いや、全然」

「だろうな。これだけ真っ暗だと」

 実際、船窓の向こう側は暗すぎて室内の光を反射し、覗き込んでも鏡のようにこちら側が見えるばかりだ。

「えらいギャップやな、って考えてたとこやったんや」

「ギャップ?」

 火村が、怪訝そうな顔で聞き返す。アリスの言葉が唐突だったので、なにを言いたいのか解らない。

「せや。船の内側と外側のギャップ。華やかなパーティ。着飾った人間たち。豪華な食事。穏やかなピアノの旋律。贅を尽くしたあれやこれの船壁一枚隔てた向こう側には、暗い海。高い波。冷たくて激しい雨と強い風が吹いてる」

 アリスはまた視線を船窓の闇にあてながら、そんなことを言った。

「さすが作家先生だな。この船に乗ってる誰も、そんなこと考えちゃいないだろうに」

 火村は茶化すようにそう答えて、アリスのまだ水気のある髪に触れる。

「ひとは慣れる生き物やからな。贅沢に慣れてしまえば、それが日常になってしまうんやろうな。けど、俺みたいにちょっと仕事で乗ってみただけの奴には、違和感ありまくりや」

 アリスは、火村の長い指が自分の髪に絡むことなど頓着せずに、まだ見えない海を見詰めながら言う。

「パーティ会場でみんなを観察してて思ったんや。誰も楽しくなさそうなんやな、って。みんな、笑っとったし、会話もはずんでるようやったんやけど、それでもなんか空々しい気がして。なんて、貧乏人の僻みなんやろうか?」

 火村は弄んでいた指を髪から放し、代わりにアリスの頭を自分の胸に引き寄せながら囁く。

「いいや、そりゃあ作家の正しい観察眼、ってやつだろう。ここの連中の笑い声が、どうにも嘘くさくて胡散臭いって、俺は着いて早々に、感じてたね」

 アリスは驚いて、火村の胸から顔をあげ、そのまま火村の顔を見あげる。

 「ごく普通の豪華客船の旅、としての一般客を乗せてるわけじゃないだろう? 初航海記念で、試運転みたいなもんだ。誰も彼も、話題になり宣伝に使える、そのための客たちのはずだ」

 そう言いながら、火村はまたアリスの頭を引き寄せる。頬に触れ、胸元に手を入れる。

「ああ、もう解ったから。ベッドいこう」

 火村の意図など最初から見通しているアリスは、さっきまでの深刻そうな表情を投げ捨てて誘う。

 けれど、火村は首を振る。

「どうせ、誰も見てねぇよ。ここでも、俺はかまわないぜ」

「俺がかまうわ、アホ!」

 ムードもへったくれもあったものではない。結局、腕の引っ張り合いのようなことになってしまい、その滑稽さに我に返り、顔を見合わせて笑ってしまう。

 ひとしきり笑い転げてから、ふっと真面目な顔をする。黙ったまま、見詰め合って唇を寄せる。

 瑞で見ているものがあれば、どれだけバカらしいことをしていたとしても、今は恋人たちの時間だった。

 腕を引くアリスに、こんどは火村もあっさり折れて、二人は寝室のベッドにもつれあって横たわる。

 少しだけ落とした照明のしたで、お互いの顔をじっと見る。

 どちらからともなく、また唇が重なって―――お楽しみはこれから。のはずだった。

 けれど、これからというときに、インターフォンがならされ激しくドアがノックされた。

 さっきまでの甘いムードはどこへやら。二人は、昼間の顔に戻って顔を見合わせ、すぐにベッドから降りた。

 なにかが起きそうな、そんな予感が心のどこかにあったのだろうか? いいところを邪魔されたはずなのに、不思議と二人とも反応は素早く、そんなことに執着する気持ちは湧かないようだった。つき合いの長さゆえか、明日もあるという余裕なのか。

 とにかく、服装の乱れをチェックし、ナイトガウンをひらりとまとった火村が、ドアを開く。

 そこには、客室乗務員の制服を着た若い男がひどく緊張したようすで立っている。よく見ると、その顔色は蒼白である。

「客室のひとつで、人が殺されました。海が荒れていて、海上警察がすぐにはここまで来られないらしいのです。申し訳ありませんが、ご協力くださいませんでしょうか? 無線で確認したところ、警視庁からこちらに専門家がいらっしゃると示唆されました。火村助教授でいらっしゃいますね?」

 犯罪社会学者の火村英生は、フィールドワークと称して、警察の捜査に協力することが多くある。たいていは、難解な殺人事件であり、火村の活躍により解決した事件も少なくない。なんどか、警視庁にも関わったことがあり、今回は膨大な乗客名簿から、なんとか海上警察が到着するまでのつなぎ、としてでも役に立ちそうな人間、ということで指名されたらしい。

「そうです。着替えますから、1分だけ待ってください」

 乗務員を廊下に置いたまま、そう言って火村はドアを閉め、ガウンと寝巻きを脱ぎ捨て、ラフなシャツとスラックスを手にとる。アリスも、当然のように着替えにかかっている。

 そしてジャスト1分後、二人はこの船に乗り込んだときの服装に戻って乗務員のまえに立った。

「現場に案内してください」

「はい!」

 乗務員は、背筋を伸ばして返事をすると、二人を殺人現場まで先導するのだった。

 

 5へつづく(2000.5.7)

 

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