昨夜のアリバイ

 〜誰が犯人かは作者も知らない〜

***5***

 

 現場に漂う緊張感と、ただならぬ空気を察したものか、近くの部屋らしい乗客の何人かが遠巻きにようすをうかがっている。だが、さすがお上品なお客様たちをそろえた結果、というべきか、乗務員たちの輪が作ったさりげないバリケードを押しのけてまでなにが起きたか知ろうとする者はないようだ。

 そして、そのバリケードの隙間をぬけて、火村とアリスが案内されたのは、彼らのあてがわれた客室と同等のスイートルームだった。

 奥の部屋の、キングサイズのダブルベッドに男性が仰臥している。

 その左胸には刃物が突き立てられたままになっている。赤黒い血は、まだ生乾きらしく、鈍く室内灯を反射していた。

 火村とアリスにとって、殺人現場は決して日常ではなかったが、それでも運悪くこの船の乗務員になってしまって初めてこんな場面に出くわした多くの者たちよりは、見慣れている分だけ落ち着いている。

 火村はゆったりとした足取りで被害者の近くに歩み寄りながら、いつもの黒い手袋をはめていた。

 アリスも、そのあとを静かについていく。

 近寄ると、錆びた鉄のような血の匂いが鼻をつく。不安そうな乗務員たちの視線の中心で、火村は改めて被害者の瞳孔が開ききっていることを確認した。そして、さされた左胸を仔細に眺める。刃物は、飾りのついた細身のナイフであるようだ。一瞥しただけでも高級そうなものと解る凝った飾りの柄で、これなら持ち主を特定するのも容易であろうと思われる。

 それだけ確認すると、火村はくるりと案内してくれた乗務員を振り返る。

「発見された時間とその経緯を教えてください」

 乗務員は、固い表情で頷いた。けれど、まだ頭の整理がつかないのか、なんども唾液を飲み込むようにしながら、なかなか言葉が出てこない。その瞳からは、緊張と困惑。そしてこんな状況下にあっても落ち着き払っている火村に対する畏怖が見え隠れしている。

「ああ、ちょっとお待ちください。わたしも、状況の説明を一緒にうかがいたい」

 そこに、乗務員たちの輪を割って、年配の男性がそう声をかけてきた。

「せ、船長」

 言葉に詰まっていた若い乗務員は、ほっとしたような表情で年配の男性を見た。どうやら、彼がこの船の最高責任者、というわけらしい。少し長めの髪が、額に乱れかかるのを気障な仕草でかきあげつつ、火村とアリスを見据えてから軽く会釈した。

「申し遅れました。この船を預かっている兒玉といいます。火村先生と有栖川先生でいらっしゃいますね? おやすみのところ申し訳ありませんでしたが、よろしくお願いします」

 さらさらと、まるで用意してきたような台詞を、船長は吐き出した。けれど、その態度や物腰からは誠意が感じられない。警察でもない単なる客を、こんな事件に介入させるのは不本意だ、と内心で考えているのがありありと解る。

 警察関係者も、火村のフィールドワークを諸手をあげて歓迎している者ばかりではない。なので、こうした関係者の反応にも慣れている。火村は、まるで気にしたようすもなくさきほどの言葉を繰り返す。

「それで、発見時の状況は?」

「そうだよ吉幡君、どういう状況なのか説明してくれたまえ」

 兒玉船長に促され、それでもまだなんどか唾液を飲み込んだ吉幡は、肩に力を入れまくりながら死体発見までの長い経緯を語りはじめた。

「お客様から、内線電話でルームサービスのご依頼をいただいたのです。何故だか本日乗船されてすぐ。おそらく午後2時頃のことでした。夜中まで仕事をしなければならないから、午前零時に熱いコーヒーを頼む、と。もしかしたら眠ってしまっているかも知れない。でも、寝ているヒマはないので、もしもインターフォンを鳴らしても応答がない場合は起きるまで鳴らし続けてもらいたい。というご依頼でした」

 妙な依頼だとは思ったそうだ。けれど、これだけ多くの客がいれば、なかには変わった者も混じっているものなのだろう。吉幡はそう判断したという。彼は、まだ若いがそれなりの経験を積んできているらしい。

 そうして彼は客のリクエスト通り、午前零時に熱いコーヒーを持って、この部屋のインターフォンを鳴らした。

 けれど、室内はしんと静まりかえっており、誰も応答するようすがない。これは、本人が話していたように眠ってしまっているのだろう。もしかしたら、コーヒーよりも寝ているかも知れない自分を起こさせるためのルームサービスだったのかも知れない。

 吉幡はそう判断し、言いつけを忠実に守ってインターフォンを鳴らし続けた。

 しばらく鳴らしてから、耳を澄ます。けれど、室内からは物音ひとつ聞こえてこない。

 これは、本格的に熟睡しているのだろうか? それとも、パーティの席上で盛り上がってしまい、まだ部屋に帰ってきていない、という可能性もあるのか?

 乗務員はあれこれ考え首を捻りつつドアを直接ノックしたりもしてみた。

 それでも、なかから誰か出てくるようすはないようだ。

 乗務員のうち、清掃係を除いては原則的には客室に足を踏み入れない、という決まりがある。だが、今回の場合はもしも客が熟睡していて大切な仕事に支障をきたすようなことになれば、間違いなくクレームの対象になるだろう。原則上の決まりよりも、サービス精神を優先させるべきだろうとも考え、吉幡はドアのノブに手をかけた。当然、ロックされているだろうとは思ったが、万一ということもある。客は、起こして欲しいと考えていたのだ。

 そして、ドアノブは簡単にまわった。

 吉幡は、ドアを開きまだ足を踏み入れる手前で少し大きめの声をかけた。

「お客様、熱いコーヒーをお持ちしました!!」

 けれど、やはり室内は静まりかえっている。この船の客室は全室オートロックである。ただし、乗船の際に渡されるカードキーが2枚だけなので、3人以上の宿泊者が自由に出入り出来るようにする必要がある場合などのために、手動でオートロック機能を解除出来る仕組みになっている。

 吉幡は、ドアが簡単に開いたのは、中に入ってきてでも起こせ、という意味だろうと解釈した。

 そう言ってから、少し黙りこむとやがて暗い顔でつけ加えた。

「胸騒ぎのようなものがしたのも確かです。それを打ち消したくて、それできっと眠っているんだと自分に言い聞かせながら足を踏み入れました」

「胸騒ぎ? なにか根拠があったのですか?」

 黙って聞き入っていた火村が唐突に口をはさんだ。吉幡は驚いたような顔で火村を見、それから船長を見て彼が頷くのを確認してから答える。

「はい。オートロックは確かに解除も出来る仕組みにはなっておりますが、それは3人以上で1部屋お使いになるお客様にしか通常説明しておりません。あのお客様は、こちらにお一人でご乗船になっていらっしゃったので」

 わざわざオートロックを解除して眠っている、という状況は不自然だったのだ。だから、乗務員は不審に思った。

 そして、嫌な胸騒ぎを心で打ち消しながら客室に入り、自分が必死になって起こそうとしていた客の目は、もうこのさき永遠に醒ますことが出来なくなっている、という事実を確認する羽目になったのだった。

 そこまで聞いて、アリスは被害者のほうに目をやった。血の気の失せた顔は苦悶の表情を浮かべている。そのせいで、さきほどはちらりと見ただけですぐに目をそらしてしまった。どこといってあまり特徴のない地味な顔立ちであるということは解ったが、それだけで見たこともない相手だろうと決めてかかっていたのだ。なにせこの船には、乗客が300人近く乗り込んでいるのだ。とてもではないが、全員の客など把握出来ない。

 けれど、改めてよく見ると、その被害者の顔には見覚えがあった。

 アリスは思わず、火村のジャケットの裾を掴んでしまう。

「な、この人は・・・・・・」

 そして、傍らにいる男にだけ聞こえるような囁き声は、苦しげに途切れた。名前を思い出せない、というわけではないようだ。ただ、今更ながらに昼間起きて喋っていた男が物言わぬ存在になって目の前にいる驚愕に喉がからからになってしまって言葉をつなげなかった。

「なんだ、アリス。今ごろ気がついたのか?」

 しょうがない奴、とでも言いたそうに火村が囁き返す。

 そして乗務員と船長の顔を等分に見ながらゆっくりと言った。

「被害者は、宇藤隆さん、ですね?」

 

 

 6へつづく(2000.5.13)

 

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