〜誰が犯人かは作者も知らない〜
海はまだ荒れていた。大きな船なので、酔うほど揺れることはないようだが、それでも海上警察が出てこられないほどには、悪天候が続いている。
殺人現場には、乗務員が二人づつ、交代で番をすることになった。
そして、すぐにでも乗客乗員に話を聞きたいという火村の申し出は、あっさりと却下された。
なにせ、深夜のことである。例え殺人事件が起きたからと言っても、逃げる場所など船の外にはないという状況だ。ここで、乗客を眠らせずに聴取につき合わせるなど、出来ない相談だっただろう。正規の客ではないが、ある意味、正規の客よりももっと多くのVIPを乗せている。朝になって、朝食もゆったりととってもらって、それからようやく協力を仰ごうというのが、船長はじめとした乗員側の見解である。
しかたなく、火村とアリスはいったん部屋に戻った。
「まったく、悠長なこったな」
すぐにでも捜査にかかりたい火村としては、不平たらたらである。
「しゃあないやろ。こんな荒れた海のうえや。どうせ、犯人かて逃げられやせん」
救命ボートを盗み出すことが出来たとしても、海は大荒れである。この安全な船からそんなもので逃げるなど自殺行為だろう。犯人が罪を悔いて自殺しようと考えたとしたら、海に身を投げる可能性もなくはないが、さきほど乗務員から受けた「点呼完了。乗客・乗員はすべて所在を確認した」という報告を信じる限り、犯人にそんな殊勝な気持ちはなさそうだ。
「当然だ。俺は、逃げられる心配なんかしてるわけじゃねぇよ」
火村は、ベッドに寝そべってまだソファに腰かけているアリスを見上げながら言った。
「不吉なこと言うやないか」
アリスには、火村の心配がどこにあるか解ったようだ。
「めずらしく察しがいいな」
からかうように言って、火村が半身を起こす。
「めずらしく、は余計やろ。で、おまえは心配してるんだ。このままおとなしく朝を待ってるうちに、次の犠牲者がでるかも知れへんって」
「そういうこと。毒にも薬にもならなさそうな宇藤隆を殺してメリットのあった奴が誰かなんて考えるより、無差別殺人鬼の可能性について検討しておこうって話だ」
アリスの記憶にある宇藤隆は、確かにやさしげで、他人の恨みを買うようなタイプではなかった。けれど、本人の資質とは別のところで恨まれる可能性はあっただろう。恨み、というよりはねたみ、と言ったほうが妥当かも知れない。一見して凡庸な印象のあの被害者が、なんの努力もなく宇藤地所の次期社長の座を約束されている立場であったのだ。
「けどな、火村。この船にそんな殺人鬼が乗ってるて思うより、宇藤隆の立場をねたんだ奴の仕業っちゅうほうが、ありそうな話やないか?」
「余談は禁物。どっちがありそうかなんて、今の段階じゃなんとも言えないぜ」
そう言って、火村は目を細めてアリスを見る。
「それでおまえは、いつまでそのソファにいるつもりなんだ?」
火村の指摘に、アリスは頭をかく。
「いや、これはふかふかでなかなか居心地がいいな、と」
「バカだなアリス。居心地ならそんなソファより、俺の腕の中がいいに決まってるだろう」
火村は臆面もなくそう言って、ベッドの自分の隣を指し示す。
「おまえには羞恥心ってやつはないらしいな」
アリスは溜め息をつきながらも、ソファから降りてベッドに歩み寄る。
「そんなものあっても、飯の足しにもならないからな」
火村は片頬で笑ってアリスを抱き寄せた。
翌朝。
乗客の朝食がひととおり終わる時刻になって、火村とアリスはようやく事情聴取の許可を得た。
船長に提供してもらった小会議室に最初に呼んだのは、古藤田勝美だった。
泣きはらした目に、無理矢理アイシャドウを塗りたくったらしく、昨日とは別の意味で迫力のある顔立ちになっている。けれど、残念ながら彼女の周囲にそれを指摘できるほど勇気のある取り巻きはいなかったらしい。そして、火村やアリスはそれを教えてやるほど親切でもない。
当の勝美は、顎を上げて火村に胡散臭げな視線を投げる。
「警察のかたでしたか?」
とてもそうは、見えないけど。と、その大きな瞳が言っている。
火村はあっさりと首を振って否定する。
「違います。ただ、警察からも依頼されて本件に関わっている者です」
その言葉を引き取って、同席していた船長が紹介する。
「こちらは、英都大学社会学部で犯罪社会学を専攻されている火村助教授。そして、そのお手伝いをされている有栖川さん」
船長は、取材で乗り込んだアリスのおまけでその友達の火村もたまたま同乗していたのだ、という事実を把握していたが、その説明は面倒なうえ、アリスの職業を推理作家と紹介することをはばかったらしい。
勝美は火村とアリスを交互に見比べるようにして、それから曖昧に頷いた。納得し、信用する気になったわけではないが、殺された婚約者のことを天候不良を理由にいつまでも放置されるのも困ると考えているようだ。
「早速ですが、古藤田さんが宇藤さんに最後に会われたのはいつでしたか?」
火村は、勝美の思惑になど頓着せず、事務的な口調で質問した。
勝美は、なにか痛いものをこらえるような顔つきになりながら首を傾げる。
「昨日の午後だったことは確かなんだけど、正確な時間までは思い出せない。時計、見なかったから」
「場所は、この船のデッキ。スターデッキを一段降りたところあたりで、古藤田さんが一方的になにか言っていらした。それなら、午後四時過ぎだと思いますが、それが最後ですか?」
アリスの言葉に勝美は、細く書いた眉を吊り上げる。
「どうして、そんなことを知ってるの? 立ち聞きしてたってわけ?」
「すみませんね。人並みの耳を持ってるもんで、通りかかったら聴こえてしまって。特に女性の甲高い声というのは、聴く気がなくても、耳に入ってきてしまうもので」
アリスをかばうように説明した火村を、勝美は呆れたような目で見る。けれど、強い視線を返されて、ふっと肩から力を抜いて諦めたように頷いた。
「そうよ。多分、それを見てたって言うなら四時過ぎだったんでしょうよ。そのときが最後。後味の悪いことにね」
最後の一言は、かすかな声で囁かれた。誰かに聞かせるためではなく、ついもらしてしまった独り言、といったようすだった。
「不躾な質問ですが、宇藤さんを恨んでいる人間に心当たりはありますか?」
「私くらいじゃないかしら」
そっけない即答に、船長は驚愕したが火村もアリスも落ち着いている。なんとなく、このお嬢様のキャラクターなら言いかねない台詞だと思えたからかも知れない。
「せっかくの楽しい船旅を台無しにされて。正当な手順を踏んで、こちらから破棄させてもらうつもりだった婚約だって、こんな形で解消させられることになって。恨むなというほうが無理な話だと思わない?」
「失礼。言い方がまずかったようですね。今、現在、彼を恨んでいるのではなく、生前の彼を恨んでいた人物についてお聴きしたい」
「恨まれる甲斐性なんかない男だったのよ。どこまでもお人好しで、人当たりもいいし、誰にでも気を遣って、呆れるくらいにやさしくて。どうしようもなく、私とはつりあいのとれない好青年ってやつよ。だから、誰に聴いても恨みなんか持ってる容疑者は浮かびやしないでしょうね」
勝美は、早口でそれだけまくしたてると、生前の宇藤を思い出したのか、暗い瞳で唇をかみ締めた。
8へつづく(2000.6.10)