昨夜のアリバイ

 〜誰が犯人かは作者も知らない〜

***序章***

 

 招待されたのは、名前のせいだった。

 来月の正式デビューを控え、その宣伝も兼ねて有名人、著名人を招待しての豪華客船の旅。二泊三日は、東京湾竹芝桟橋からスタートして太平洋上を周回し、大阪港に寄ってから最終的には東京湾に戻る、というコースだった。二泊ともが船中泊である。

 その豪華客船は名前を、クイーンアリス号といった。

 

 

「運航会社はハッピークルーズコーポレーション。総重量14,745トン。全長187メートル。全幅20メートル。喫水5メートル。巡航速度が10〜15ノット。ちなみにこのノットという単位は1時間に1海里進むことで、1海里は約1,852メートルや。せやから、わかり易く言えば時速はざっと30キロ程度やな。乗客定員が287名。乗務員が178名」

 アリスの説明に、火村が口笛を吹く。

「すごいな」

「せやろ? バブル崩壊以来、ここまで豪華な客船が新造されたのは初めてのことなんや。しかも、乗客に対する乗務員の比率がすごい。それだけ万全の体制でサービスに努めるってことらしいんや」

 まるで、自分の手柄でもあるかのように、アリスは胸を張る。

 けれど、火村は苦笑混じりで応える。

「今更そんな船の規模やサービスに感心してるわけじゃないぜ。俺だって、ニュースくらいは見る。そんなことよりよくまぁ、それだけ予習してきたもんだなって、言ったんだ」

 アリスは今の説明を、メモや手帳もなしで一息に喋りきったのだ。火村の感想は、それほど得意とも思えない数字の羅列を、すらすらそらで言えるほどよく覚えられたものだ、という意味であったらしい。

 そこはクイーンアリス号の客室。しかも、スイートルームである。窓からは、青い空と輝く太陽をきらきらはじく、まぶしい海が見える。凪いだ海。穏やかな午後。家具調度類は、高級ホテルと比較してもまったく遜色ない。アイボリーの壁にかけられた絵画のなかでは、水平線に小さな船が浮かんでいる。シャンデリアほど仰々しくはないが、洒落たデザインの照明器具は、明るすぎず暗すぎず、やさしい灯りを提供してくれる。ゆったりとした気分で、休暇を心ゆくまで堪能出来るよう配慮されているのだろう。

 ガラスのテーブルをはさんで、ふかふかのソファにかけて向かい合い二人は、寛いでコーヒーを飲んでいる。

 パーティーは夕刻からだ。それまでは、各自自由に行動していいと聞かされている。乗船したのはほんの30分ほどまえのこと。

 いくら豪華な洋上の別荘だと言われても、一人きりで滞在しても楽しいはずがない。かと言って今回の招待主は日頃あまり縁のない旅雑誌の編集部であるから、担当編集者ともつい数日前に会ったばかりである。しかも、どういうわけだかアリスの担当だと紹介されたのは、かなり年配で大変真面目で実直そうな男だった。嫌いというよりは、苦手なタイプのような気がする。

 せっかくスイートを用意してもらったなら、友人を誘いたいと思うがどうか? と、訊いたら担当者もほっとしたようすだった。恐らく彼もほとんど初対面に近いうえに、日頃かかわりのない推理作家の面倒を見たいとは思わなかったのだろう。

 あっさりOKをもらったものの、その時点で火村のスケジュールを確保していたわけではなかった。

 帰りは大阪港で下船出来るものの、乗船するにはわざわざ東京まで出て来なければならないので、火村を誘っても断られる可能性が大きいかとアリスは案じていたのだが、偶然にも火村が所用で東京まで出てくるのとこの招待の時期が重なったために、二人で船上の客となることが出来たのだった。

「仕事熱心なんや」

 アリスを招待したの旅雑誌というのは『マンスリーマリンクルーズ』という。あまりメジャーではない船旅を中心にした月刊誌で、部数もそれほど多くはない。けれど、アリスはそうした雑誌に寄稿するのが案外好きらしい。日本では久し振りの大型豪華客船のデビューを飾る記事のひとつを船と同じ名前を持つ推理作家に書いてもらおう、という趣向に、大乗り気で引き受けた仕事だった。実際に、自腹でこんな豪華客船に乗船出来る機会など滅多にあるものではない、というのも二つ返事で依頼をOKした理由ではあっただろう。

「お仕事に来たんだもんな、おまえは。けど、それにしちゃあでれっとした顔してるぜ」

 意地悪く指摘され、アリスは両手を頬にあてる。

「失敬な。仕事に打ち込む凛々しい顔やないか」

「どれ、よく見せてみろ」

 火村は頬にあてたアリスの手をどけて、至近距離から覗き込む。

「ふーん、これが凛々しい顔って言うのか?」

 日本語の使いかた間違ってないか? などと言いながら立ち上がり、ふいうちのように抱き寄せる。驚いているアリスにかまわず、火村はその唇を自分のそれでふさいだ。

 いきなり仕掛けられた濃厚なキス。

 アリスは抗うことも思いつかず、そのまま火村の背にしがみついた。

 どれくらいそうしていただろうか?

 長いキスのあとで、火村は再びアリスの顔を覗き込み、にやりと笑う。

「なんだ、やっぱりでれっとした顔してんじゃねぇか」

「誰のせいや!!」

 アリスの抗議の声に、火村の楽しげな笑い声がかぶる。

「まったく、なに考えとんねん」

 二人と、そして多くの有名人たちを乗せた船は、とりあえずは無事に太平洋上をすべりだした。

 このあと起きる悲劇と、それに関わる推理作家と助教授の奮闘については、本人たちも含め、誰ひとり予想することもないままに―――。

つづく(2000.3.17)

 

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