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2019.02.28(木) 「晦日-みそか」

◍広辞苑で「晦日-かいじつ」を引くと「毎月の末日、みそか、つもごり」

     「三十日、晦日」で引くと「月の第30番目の日」転じて月の末日を言う

 ネコヤナギ

たった2日か3日短いだけなのに「もう2月は終わりか・・・」という気がします。
この1カ月平爺にも予期せぬ出来ごとがあったりして、ことさらに早く過ぎて行った気がします。

一月往()ぬる 二月逃()げる 三月去()
よく言われることばですが、たしかに年明けからの3ヶ月はことさらに速く通り過ぎていくのが実感です。
平爺もこの2月は、医者にかかるほどのアクシデントがあったり、運転免許更新に伴う認知機能検査があったりと、せわしない日々でした。ただ雪が少なかったのは幸いでした。

◆桜の開花予想、今年は例年になく早くなるとの情報。サクラで頭に浮かぶのは

     ねがわくば  花のもとにて  春死なむ

                    その如月の  望月のころ  (西行法師)

年寄りが、桜の花を見ながらふと口にする言葉は「来年も花を見られるかな~」・・・その心情が分かる歳になってきました。


2019.02.27
(木)登山漬けだったあのころ

昨年8月「飯縄山1918m・瑪瑙山1748m」、9月に「火打山2454m・妙高山 2462m」、10月に「フスプリ山1944m」  ・・・その後は登山から遠ざかったまま。理由は足底筋膜炎の痛みで登山どころではなかったため。その痛みは解消したものの、登山に復帰できないままです。

マラソン、登山、水彩画・・・夢中にさせてくれた趣味も、一枚一枚皮を剥ぐように消えていきます。淋しいことですが、これが歳をとるということでしょうね。ちなみに過去の年間登山状況を調べてみました。
 
もし平爺が人生を語るとしたら、やはりテーマは「登山」かな~  その登山とも距離を置くときが来たような気がしています。

    2003年までは登った山の数2004年以降は登山日数

1997年 47

1998年 73

1999年 49

2000年 76

 







2017
2018年は

胸椎圧迫骨折足底筋膜炎に遭った年です

2001年 86

2002年 41

2003127

*******

2004年 71

2005年 70

2006年 73

2007年 48

2008年 21

2009年 28

2010年 40

2011年 30

2012年 37

2013年 58

2014年 38

2015年 31

2016年 40

2017年 6

2018年 10

*******








  









2019.02.26(火) ふと立ち止まってみると・・・(2)


◆のめりこんだマラソンも、前立腺がん全摘手術を1か月後に控えた長野マラソンが最後でした。担当
医の許可を得て参加、4時間45分で何とか完走。これがフルマラソン最後、67歳でした。

四国遍路36日通し打ち・1日平均33km
結願 八十八番大窪寺にて  75歳

◆加齢による体力低下の中で思いついたのが水彩画。70歳の時、私には遠い世界のことと思っていた水彩画。清水の舞台から飛び降りるような勇気で、初歩からの水彩画教室へ。

それからは水彩画一筋、食事の時以外は何もかも忘れて一日中絵筆を手から離さないことも珍しくない。ゼロスタートから3年、難関の日本水彩展に入選、その通知を受けた時にいちばん驚いたのは平爺自身でした。
その後3年連続で入選、達成感にほっとひと息、次に頭に浮かんだのが四国霊場の歩き遍路通し打ちでした。案じたのは人工肛門というハンディの克服。勇気のいる決断でしたが、まさにわが人生のピークだったかもしれません。

今ゆっくりと老後の坂を下っています。何を目指して生きているのか?・・・正直なところわかりませんが、認知症介護施設のボランティアが社会の窓の大切な一つかもしれません。

思えば、その時々で夢中になれるものがあったのは、幸せなことだったような気がします。険しく急な下り坂に出会わないことを祈りながら、ゆっくりと歩んでいければと願っているこのごろです。

2019.02.25(月) 立ち止まり、ふと振り返りみる年齢となりました

始めてのフルマラソン 45歳
3時間38分
 

80の坂をトボトボ登って(下って)いる今の自分の姿を、ふと立ち止まり振り返ってみる心境になりました。凝り性というのか、猪突猛進型というのか、他人様から見たら「変わり者」の部類に分類されるのは間違いないと思います。

◆小学生のころ・・・なぜか郵便切手に関心がありました。田舎にしてはやや大きな工場が近くにあり、ゴミ捨て場には捨てられた封筒などがたくさんありました。そこから使用済み切手を拾い集め楽しんでいましたが、あの切手はどこへいったのかな~?お金は一銭もかからない遊びでした。

◆高校生のときは「速記部」でほんど毎日特訓。部員の読み上げる国会議事録を速記-翻訳という繰り返しの練習。全国大会は東大26番教室だったと思います。2回参加しました。3年生のときは部長。

◆社会人となってからは仕事最優先・・・・自分の時間が多少取れるようになったのは35才過ぎ、近所のおっさんに勧められてサツキ盆栽を始めたらやめられなくなって最大100鉢以。剪定・水やり・施肥・花摘み・・まさにパンク状態。15年ほど続きましたが、転住先に置く場所がなく涙を飲んで譲り渡してしまいました。

◆サツキ盆栽と並行して始めたランニング。「ジョギング」という言葉が市民の口にのぼり始めたころのことです。年齢は42歳だったと思います。地方支店勤務となり、通勤時間が短縮されたのを機会に、その時間の活用というのが理由。一日10数分のチョボチョボ走から5K、10Kと距離が延び・・・一日も休まず。そして初めて10キロマラソン参加から火がつき、やがてあっちの大会、こっちの大会とフルマラソン大会をめぐり。48歳直腸がんのときに心に秘めたのは「いつかまたフルマラソンを」でした。
月間に走る距離は300㎞、雨風・風雪は関係なし。

◆直腸がんのあと、マラソンに代わって取り組んだのが登山。憑かれたように登りまくり、単独行を基本として日本百名山、日本300名山と日本中の山を訪ね歩き、登った山の数は2200座になりました。(つづく)


2019.02.24
(日) 小林一茶 俳文

「俳文」とは俳人によって書かれた俳諧趣味を帯びた文章。簡潔,洒脱で含蓄が深く,多くは俳句を配してある。

◆毎日が同じような繰り返し、それでも一日一日退屈を感じることなく過ぎて行きます。
以前はぼんやりしていることが苦痛になるほど、次から次へとやることを見つけて・・・というか、いつも追われるように毎日が過ぎて行ったのにネ―。

◆一昨日は市民文学講座の中の「一茶の俳文を読む」に参加、講義を聴いてきました。1時間30分の講座でした。女性・・・と言ってもかなりのお歳のおばさんが20名ほど、男は平爺一人だけ。何となく場違いの感は否めず鶴の群れの中にガチョウが下りたような感じと言うのかな?

この日が3回目の講座で、前の2回は参加していません。イマイチ講義にのめりこめません。一茶というからには俳句の話も多かろうと思ったのですが、一茶の綴った日記風の書の裏表を紐解いて行くというような話で、俳句は出て来ません。一茶の裏の顔と言ったらいいのか、家族・同人・知人などとの泥くささなどの一面を知ると、句の裏に漂う一茶の悩みが見えてくるような気もしまた。

・雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る   ・春風や 牛に引かれて 善光寺
  ・やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり
      ・我と来て 遊べや親の ない雀
このイメージとはかなり隔たりを感じする一茶の知らざる顔でした。

2019.02.23
(土) 子供を大切にする日本へ

オオイヌフグリ

◆報道を見ていると「心愛ちゃん虐待死」を報じるあまりのむごさに、世間の目が厳しくなったのを反映、識者などからもさまざまな問題指摘や保護のあり方などが問題として指摘されているように思います。

ここまでくれば、あとは政治がどう真剣に取り組むか・・・そこにかかっている気がします。身勝手な親の虐待によって犠牲となった幼児・児童のためにも「子供を大切にする日本の旗を掲げ」政官民一体となった体制作りの実現を期待したいと思います。

    

◆記録に残っている限り、日課のウォーキングを10年以上欠かしたことがありません。その前はランニング、これも風雨・風雪や寒さは関係なしの日課でした。
去る19日、気になることがあって医院へ。医師から「日課のウォーキングは休むように」という沙汰を受けてしまいました。詳しいことは折をみてお知らせしますが、差し迫った事態ということではありませんから気にしないでください。

何十年とランニング、ウォーキング、登山と酷使してきた体、そろそろ年齢も考慮して少し休ませてあげるようにということだと思います。齢82歳、ふと立ち止まり、そして振り返ってみると、よく走り、よく歩き、よく登ってきたものです。キザですが自分で自分を褒めてやりたい気持ちです。

つづけてきたのは「つづける」が平爺の座右の銘の一つだからです。

 2019.02.22() 一茶句碑(8)

春風や 犬の寝そべる わたし舟

一昨日は春到来を思わせるうららかな陽気・・・と雖も(言えども)四囲の山々の姿はまだ冬のさ中、雪化粧のままです。暖かな陽気に誘われ、リンゴ農家が剪定に精出す姿が目立ちました。季節は少しづつですが進んでいます。
 

  春風や 犬の寝そべる わたし舟  一茶

一茶の故郷、住まいは信越国境付近の雪深い柏原。俳人たちとの交流のために現在の高山村へ足しげく通ったとのこと。高山村へは千曲川を渡し舟で渡るしかなかった時代。そのときの春めいた長閑さを詠んだ句でしょうか。
このあたりの千曲川は川幅が広く、ゆったりと流れています。平爺のウォーキングコースもその近くを通ります。たぶん布野(フノ)しというのがそれだと思います。
春めいてきたころ、渡し舟を待つ長閑な光景が目に浮かんできますが、艀に着ついた渡し舟の中でのんびりと昼寝している犬がいたのかもしれません。飼い主は舟頭さんでしようか。

2019.02.21() ポツンと一軒家

「ポツンと一軒家」というテレビ番組、肩の凝らない興味深い企画で、毎週録画して見ています。人里離れた山奥の一軒家、それぞれの事情でその地を離れず、親から子へ、子から孫へ・・・考えられないような不便を押して家を引き継ぎ生きていく。その生きざまにも感動しますが、日本が仕掛けた太平洋戦争が終わった74年前は、主要都市は絨毯爆撃で焼き尽くされ、多くの国民が家を失い、バラックという掘っ立て小屋暮らしを余儀なくされました。食料不足で山奥の樹林を伐採して田畑にし、食を手に入れなければならなかったという背景もあったのでしょう。

平爺も、山林を切り開いた開墾畑の耕作を手伝った記憶を鮮明に覚えています。その畑は今はカラマツ林に戻っています。
     ********************************

◆最近「空き家問題」がマスコミなどにも取り上げられます。
全国規模でみると、およそ7戸のうち1戸が空き家とのこと。敗戦後、家を焼かれ、掘っ立て小屋で夜露をしのぎ、さまよった人々の姿を想像すると信じられない話ですが、この先も空き家はさらに増加との予測。

古いデータ(フィナンシャルフィールド)ですが平成25年の県別空き家率は

春めく風景

         家屋数  うち空き家 空き家率
   山梨  422100   92900   22.0
    長野   822000  194000 19.8
    和歌山 475900   86000 18.1
   高知  392400   69800 17.8
   愛媛  705200    123400 17.2
              (中 略)
   東京  7359400  817100  11.1
   埼玉  3266300  255000  10.9
   山形   431900    46100  10.7
   沖縄   602800    62400   10.4
   宮城  1034100   96900   9.4

空き家上位5県については、5軒に1軒は空き家。社会構造の変化もあると思いますが、持ち家に対する執着が薄くなっているという要因もあるかもしれません。男はまじめにコツコツ働いて、家を1軒持てれば大成功・・・と言われた時代が懐かしいと思うのは化石人間故か。


野村総研による14年後の予想――空き家2150万戸 空き家率30%

2019.02.20() 敵性語

普段使っている言葉の中には外来語がたくさんあります。若者たちは難なく馴染んでいると思いますが、昭和ひと桁生まれに近い平爺の年代はなかなか馴染めない外来語だらけです。言葉は生きている、変わって当たり前・・・・。

2/18 日の出

  次の国名・都市名を読めますか?

  ①亜米利加 ②紐育 ③英吉利 ④倫敦 ⑤仏蘭西
  ⑥巴里 ⑦伊太利亜   ⑧羅馬    ⑧独逸     ⑨伯林
  ⑩阿蘭陀
  ⑪露西亜  ⑫伯剌西爾   ⑭越南 


★敵性語である英語を禁止して、日本語に切り替えたのは1943年(昭和18)で野球も例外なし。


英語の雑誌名が禁止となり、スポーツは体育と改称。終戦後英語名に戻したものも数多くあったらしい。

・ベースボール→野球・ヒット→よし・フォーク→肉刺し・スコップ→ 円匙・パーマネント→電髪
・コンデンサ→蓄電器 ・トランクス→猿股
 ・ライオン→獅子 ・サイダー→噴出水 ・フライ→洋天
・アンウンサー→放送員 ・レコード→音盤 ・日本ビクター→日本音響

【国名・都市名の読み方】①アメリカ ②ニューヨーク ③イギリス ④ロンドン ⑤フランス ⑥パリ
     ⑦イタリア  ⑧ローマ   ⑧ドイツ  ⑨ベメリン  ⑩オランダ  
 ⑪ロシア ⑫ブラジル   ⑭ベトナム

2019.02.19() 初春の香り――フキノトウ

春に先駆けて野に香るのは「フキノトウ」、この香り、たまらないですね・・・春待つ心にしみ入ってきます。雪の下から太陽を求めて芽をだす力強さと、寒風に耐えている健気さは感動ものです。

◆先月下旬、妻が知人からフキノトウをいただいてきました。日あたりの良い庭に、毎年芽を出すとのこと。薄黄緑色のコロンとした優しい姿、どこに-10℃の寒さに耐えて芽を出す力を備えているのか、不思議な植物です。
Webでフキ味噌の作り方を参考に、平爺が作ってみました。けっこう美味くできたと自画自賛、晩酌の熱燗が格別でした。

Web検索してみると「ふきのとう」というフォークグループがありました。春を告げるようなグループを想像、少し聞いてみるとなかなかさわやかでした。

2019.02.18(
)  越冬スズメ

朝夕、その時間になると申し合わせたようにスズメが群れをなして4~50羽ほど庭に集まってきます。エサやりは夜が明けたころと日没30分ほど前と決めています。スズメもその方が分かりやすいだろうという気使いです()  エサは数分もかからずに食べつくすほどの少量です。

◆気がつくと日中の時間がかなり長くなっています。
    日の出 12月― 6時59分
          2月― 6時31分
    日の入 12月―16時31分
        2月―17時28分

日の出は28分早くなり、日没は57分遅くなっています。(計算時間に誤りがあったらゴメンナサイ)


◆人は時計に合わせて活動していますが、スズメは多分オテントウ様をよりどころにして活動しているのでしょうね。

雀にとっては、今がいちばんエサ探しに苦労する時期かもしれません。田んぼに落ちていた稲穂は食べつくし、その上雪が積もれば打つ手なし。どのようにエサを確保しているのでしょう。その年生まれたスズメが越冬できる確率はたったの4分の一とか。
人間のいちばん身近にいる小鳥はスズメ、いつまでも共生できる状態が続くといいと思います。


2019.02.17(
)  一寸の虫にも五分の魂――蜘蛛

 1週間のおつきあいでした

◍蜘-音は「ち」で訓は「くも」 ◍蜘蛛は「クモ」 不思議な読み方です

◆蜘蛛と蜘の違い?・・・YaHoo知恵袋より。
  蜘は、小刻みに動きを止める虫・・・つまりクモ
  蛛は、じっとしている虫・・・これもクモ

不思議でややこしい・・・・。数ある虫の中でもクモ大嫌いという人はけっこう多いですね。平爺は前足の先から後ろ足の先まで、10㎝もあるジョロウグモでも平気でつかむことができます。

210日朝、机上の透明ビニール袋の中にクモが一匹もぐりこんでいました。前足の先から後ろ足の先まで約2cmほど。この寒中にどこからやって来たやら。夏のうちから屋内に住み着いていたとしか考えられません。屋外へ出したら寒さですぐに死んでしまうでしょう。
発見以降、エサも水もない透明袋の中で生きてきましたが、2日ほど前から動きは緩慢になり、
昨日は足を少し動かしたりするものの、じっとしている時間が多くなりました。無駄なエネルギーを使わないという智慧でしょうか。水滴を入れたりして様子を見ていましたが、今朝はまったく動きません。天寿を全うしたようです。たかが蜘蛛一匹、こんなに見つめたのは初めてです。

◆「一寸の虫にも五分の魂」という言葉があります。このままそっと死なせてやるか、それとも寒気の外へ放してあげるか・・・見つけた当時、実はずいぶん悩みました。
◆関係ありませんが、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出しました。

2019.02.16(
) 池江選手のことば

世界的なスイマー・池江璃花子選手の白血病ニュースが駆け回りました。厳しい病であることは誰しも知った上で、何とか回復をと祈っています。
池江選手が厳しい状況下に口にしたという一言

『神様は乗り越えられない試練は与えない』

見栄で口にできるような言葉ではないと思います。身を絞るような思いのこもった気持ちが感じられます。病と闘う気概が伝わってきます。

◆古い話ですが、平爺が中間管理職として地方支店に勤務していた時のこと、先天的な障害を持つ一人の女性が障がい者採用枠の一人として入ってきました。彼女は敬虔なクリスチャンでした。体が不自由なため一人前の仕事は無理、それを補うように一生懸命に仕事に取り組んでいました。

◆あるとき職場のレクで上高地へ。彼女は不自由な脚で、仲間に支えられながら上高地から明神池まで歩ききりました。迎えた先着の同僚たちの惜しみない拍手が今も忘れません。
その彼女があるとき『神様は、背負えないほどの荷は背負わせません。私も頑張って生きていきます』と口にしたのを今も鮮明に覚えています。

◆平爺の転勤で離れ離れになってから数年後、彼女から一通の便りが届きました。結婚して子供に恵まれました。哀しいことが一つあります。この手で赤ちゃんをダッコして、一緒にお風呂へ入れないことです・・・と。
彼女からは人として大切なことをたくさん教えてもらいました。彼女の病名は「筋萎縮症=ALS」です。 今も理解ある相棒と幸せに暮らしていると思います。40年も前の気憶ですが、今も胸に刻み込まれています。

2019.02.15(
) 女児虐待殺人事件 - 人はどこまで残忍になれるのか

雪解けの田んぼ

年が明けてから、身を刺されるような痛みを感じた出来ごとと言えば、野田市のいたいけない小4女児虐待死事件。世の中にこれほど残忍で悲しい所業かあるでしょうか。まともな食事も与えられず、毎日が拷問の日々を想像すると、胸が張り裂けそうです。

前月末に報道されてから日数が経っても、さらに新たな虐待の事実が露見、可哀そうで可哀そうでなりません。あの子は何のために生まれてきたのか、短い生涯で幸せのひとかけらでも味わったことがあったのか。
そのつらさ切なさはいかほどだったことか、想像するだけで涙がにじみ、身震いが出ます。もう2度とあってはなりません。

それにしてもあのような悪行が、どうして我が子にできるのだろうか・・・信じようとしても信じられません。まさに人間の皮をかぶったけだものです。

◆仏教に「畜生道」という言葉があります。コトバンクで畜生道を引くと
 1、 仏教でいう六道の一つ、悪業の報いによって死後に生まれ変わる畜生の世界
 2、 道徳上、許すことのできない肉親間の色情。

鬼畜にも劣るあの父親、畜生の世界へ落ちて、思い切り苦しみ、もがくがいい・・

2019.02.14() 今年もまた2月14日が・・・

今日はバレンタインデー。謂れは忘れましたが、知っているのは女性が心を寄せる男性にチョコレートを贈る日・・・ということくらい。頭に浮かぶのは義理チョコ=女性が男性の友人・知人・上司・同僚などに儀礼的に贈るチョコレート。それでも貰える人はラッキーというべきでしょう。

 平爺へ感涙のプレゼントが

◆気になるのは売れ残ったチョコの処分?平爺の想像ですが
  ・値引きの大安売りで在庫一掃
  ・溶かして普通のチョコに作りなおす
  ・工場の社員や店員に無料で配る
  ・販売店の従業員が無料食べ放題
  ・来年まで冷凍保管しておく
  ・もったいないけど廃棄処分
  ・擁護施設などへ無料お届け

  ・可哀想な平爺へのお恵み・・・は無理ですね

◆もう一つ本日の大事なこと・・そう、これがいちばん大事です。
2月14日は平爺が生まれて以来、毎年この日が誕生日だということです。
何の縁かバレンタインデー生まれ・・・でもとても淋しい誕生日。チョコが一つも届かないのです。もしよろしかったら、明日以降でもいいですから、売れ残ったチョコを送ってくださったら、多分感涙にむせび泣くと思います。バレンタインデーに淋しい思いをする平爺より()

追伸-これは内緒ですが、ある方から写真のような素晴らしい贈り物が届きました。誕生日とバレンタインデーを兼ねて今日は盛大にお祝いせていただきます。

2019.02.13(
) スキーシーズンなのに・・・

立春が過ぎたとは言え、実質寒中の寒さ。ウォーキングの途次、よく見ると桜の花芽が膨らんでいました。春遠からじといえども、花が開くのはまだまだ先のことです。

◆息子が来宅、4泊してスキー三昧、満足して帰って行きました。以前なら平爺もたいてい一緒だったのに、今回は息子の単独スキー。平爺は留守番。

というのも約2年前80才のとき、平爺は登山で脚を滑らせ胸骨圧迫骨折。医師からスキーなんてとんでもないという禁止令。

昨年秋に、スキー用具すべてをゴミとして廃棄処分。スキーシーズンが来ると孫娘と滑るのも楽しみだったのに・・・未練を残しての断捨離でした。
◆スキー場のゲレンデに立ち「ここに80歳超の爺さんが、平爺のほかには多分いなだろう・・・」そんな優越感もあったのが夢のよう。胸骨圧迫骨折の次は足底筋膜炎、そして・・・老化もスーパー超特急で進行しています。
◆新たな事情が生じ、日課にしていた早朝未明のウォーキングも、去る1月29日で終止符。以来昼間のウォーキングに切り替えました。その理由は後日この日記で。

2019.02.12(
)  叙情歌

歌のジャンルに抒情歌・叙情歌と言われるものがありますがその意味を調べると
  抒・・・・・心の中にある思いをのべるなどの意
  抒情詩・・・作者自身の感動や情緒を表現する形式をとった韻文の作品
  叙情的・・・感情豊かで情緒的なさま

◆認知症介護施設訪問の際、まず最初にやすることは皆で「故郷(ふるさと)」を歌うこと。この歌はまさに抒情詩だそうです。
  ♪兎追いし かの山 小ぶな釣りしかの川
  ♪夢は今もめぐりて  忘れがたき故郷

春よ来い

◆叙情歌とは『作詞者の主観的な感情を表現した日本語の歌詞に、それにふさわしい曲を付け、歌う人や聴く人の琴線に触れ、哀感や郷愁、懐かしさなどをそそるものを指し、これらの童謡や唱歌をはじめ、歌謡曲のスタンダードなバラードといったものを一つのジャンルにまとめたものである』・・・WEBより

◆認知症介護施設でのボラで歌うのは童謡・唱歌の類と、戦後間もないころ流行ったいわゆる「流行歌」。「紅葉」、「赤トンボ」、「里の秋」、「旅愁」、「りんごの唄」や「高原列車は行く」、「青い山脈」、「あざみの歌」、「丘は花ざかり」、「長崎の鐘」、「誰か故郷を想わざる」etc.

そのほかに「月の砂漠」とか「故郷の空」などレパートリーは結構たくさんありますが、みんな叙情歌に括られる歌かと思います。確かに琴線に触れるような情感に満ちた歌ばかりで、70台後半から100才近い方たちまで、みなさん楽しそうに歌ってくれます。終戦の昭和20年(1945年)ころは少年少女と呼ばれた年齢の方たちです。大きな声は出せなくても、一生懸命に歌う様子はタイムスリップして楽しんでいるように見えます。
歌詞だけをプリンとした歌は140曲ほど、いちばん多く歌うのは童謡・唱歌で、懐かしのメロディーもなるべく加えるようにしています。

◆わが身を冷静な目で見てみると、この音痴が「イチ、ニ、サン・・・」と声をかけて指導、恥知らずも甚だしい。でも、みんなが楽しみ、喜んでくれればそれで良し・・・と思ってやっています。

現在流行の若者の歌、平爺にはまったくわかりませんし真似もできません。この若者たちはいずれ高齢者となったとき、フリをつけて歌うのでしょうか。何十年も先のことを、平爺が心配する必要はありませんネ(笑)

2019.02.11(
) 日本語の未来

【昨日の漢字問題】・宜しく ・甦る、蘇る ・偲ぶ ・諮問 ・対峙 ・概ね ・呪う ・捕まえる
             ・委員会に諮る ・早晩 ・脅し ・恫喝 ・痩せ ・遺棄 ・琴線 ・所謂
             ・奇しくも ・更迭 ・早急 ・老舗

2、3㎝の積雪でもニュースになる東京・千葉方面が羨ましいような、そうでもないような複雑な感じ。長野は冬に雪が積もるのは当たり前・・・正直なところ、歳をとると1㎝の雪がニュースになるようなところが羨ましい。

PCやスマホの時代、手書きで文字を書く機会は激減、そのために漢字が急スピードで頭から消えて行った気がする。「読むことはできても書けない」というのが当たっているかもしれない。

◆学校では英語教育が重要視され、大学入試で求められるレベルは20年、30年前とは様変わり、授業時間は2020年から小34で年間35単位、56で年で70単位が実施されるとのこと。

◆一方ではことばの乱れというのか、変化というのか、日本語も刻々と変っていくようです。
   コンビニで「こちらが領収書になります」・・・えっ?という感じ。

◆今の小・中学生が社会の要職につくころ、今の日本語は見る影もなく、平爺が古文を読むのに似た状況になっているかもしれません。良くても悪くても「時代とともに変化していくのを止めることはできない」、順応していくより仕方ないですね。

2019.0210() 漢字

何げなくテレビを見ていると(聞いていると)、はっとするような単語や、聞き慣れた単語が耳に入ってきます。しょっちゅう耳にしているのに、あれっ、どんな漢字だったかな・・・などと思うことがしばしば。テレビのニュースなどを参考にして、いくつかメモしてみました。
下線のところを漢字で書いてみてくだい。

千曲川畔の枯れすすき

・よろしく ・よみがえる ・故人をしの
しもん委員会 ・海峡を挟んでたいじ
おおむね理解できた ・のろう ・つかまえる
・委員会にはか
 ・そうばん解決の見込み
おどし・どうかつではないか  特徴はせ型の男
・死体をいきする ・きんせんに触れる
いわゆる ・しくも一致 ・業績不振でこうてつ
さっきゅうに結論を ・友禅のしにせ


覚えたと思うと分からなくなってしまう漢字の一つに『挨拶』と『疑』がありす。いくつかのパーツの配置に迷ってしまうのてす。あるとき良い知恵を貸していただき、その後は迷うことなく書けるようになりました。
   挨拶→ムヤタ  疑→ヒヤマ  これでもう大丈夫です。

護憲は「憲法を護る」と書きますが、「憲法を守る」は間違いでしょうか?意味に違いはあるのでしょうか。

2019.02.09(
) 今月のことば
 

毎月取り換えられる、寺院門前の掲示板を見るのを楽しみにしています。今月は

  「人は必ず 生き物の命を奪って生きている」 

◆同じような意味で、言いかたがいろいろあるようです。

・生きるということは命を奪うこと
   ・人間は動物に命をもらわなければ生きていけない
   ・生きるために他の命をいただく

石や岩を噛んで生きるわけにはいきません。命をつなぐためには、他の生き物の命をいただくしか方法がない。すべての生き物共通の真実。
でも改めて問われると、人間はあまりにも貪欲に他の命を欲しいままにしいるのかもしれません。
ふと立ち止まって「人は必ず 生き物の命を奪って生きている」という言葉をかみしめてみることも大切かもしれません。

「人」が未来永劫に生き物の頂点にいられるとは限らない・・・そんな思いがよぎります。

2019.02.08(金) 
辛うじて認知症検査き合格したが・・・・

5ヶ月前に頂に立った妙高山

認知機能検査で平爺が手こずったのは、映し出されたイラストを記憶し、そのあと回答用紙に記入するテスト。イラスト16種類が1セット、これが4セットあって当日どれが出るかは不明。完璧を期すなら16種類4セット別に全部を覚えなくてはならないが、平爺にはそれは無理。
試験が始まったとたん、不安と緊張からか頭が真っ白・・・その状態のまま5つくらい回答したかどうか、覚えるいとまもなく終了。ここで落第を覚悟。

ところが、次にヒントつきで同じものを答える問題。「昆虫です」、「楽器です」、「果物です」などのヒントあり・・・・多分これは満点だったと思いますが、配点は最初の問題の半分。回生の可能性なしと諦めました。

◆ところが綜合的なギリギリセーフ。ああよかった・・・という思いと、運転はもう卒業すべきではないかという思いが交錯しています。記憶力、とっさの判断力、対応力が大幅に落ちていることだけは間違いありません。  

今回のテストは辛うじて通りましたが、事故を起こさないうちに運転継続か、免許証返納かを決断したいと思います。半世紀にわたり続けてきた運転です。どのタイミングで決断するか・・・悩むところです

2019.02.07(
) 認知機能検査結果

運転免許更新のため「認知症機能検査」に行ってきました。結果は別として、大きな荷物を下ろしたような気分・・・こんなことはじめてだな~
結果は71点「記憶力・判断力が少し低くなっています」という認定。予期していたとは言えショック。

総合点 76点以上・・・・・記憶力・判断力に心配ありません。
    49~76点未満・・記憶力・判断力か少し低くなっています。
    49点以下・・・・記憶力判断力が低くなっています
という判定の中で、5点足りずに2番目のランクでした。詳しいことはたまたた後日。


2019.02.06(
) いよいよ・・・・

本日は運転免許証更新に伴う認知機能検査・高齢者講習の日です。
これが3回目とは言え、以前は日常の延長のような気楽さだったのに、今回は「大丈夫かな~」と緊張しています。
落第したらよもやま日記には何も書きません。もし運よく合格したら報告します。
では・・・いざ出陣(笑)

2019.02.05(
) 隣組

当家居住地組織の最小単位は「班(隣組)」で、その上が「常会」→「区」となっていきます。区・班の役数は常会長・副会長・交通安全防犯委員・環境美化委員・公民館役員・福祉推進委員・交通安全推進委員・監事などがあり、世帯数40数戸の組織としてはすぐに次の役が回ってきます。

任期は4月から1年間、今年度は交通安全指導員を担当、来月で任期満了となり、しばらくは役が回ってこないと思います。定年はなし、健康その地の理由で免除扱いを望むときは、役員会に理由書を提出、総会で承認という手続きが必要です。何しろ年寄りばかりの町、すんなりと免除してもらえるか微妙です。

一昨日は常会-40数戸-が行われ、あとは学童通学見守りを2回分残して放免となります。たかが月間一日だけの学童見守りと言っても、雪の舞う氷点下の中、震えながら1時間近く立っているのは楽ではありません。

2019.02.04(
) 岩盤特区

加計学園問題も灰色・疑念を残したまま決着したかに見えます。よく出てきたことばが「岩盤特区」、半分わって半分わからない・・・そこで調べてみました。

「岩盤規制」とか「既得権益」という言葉は、政治・経済の報道でよく見聞きします。無知な平爺には明快に説明することは到底無理。webをいくつか読んでみました。

「岩盤規制」とは言葉どおり岩盤のように堅く、政治的保護の恩恵を受ける業界が、新規参入、お互いのつぶし合いを避けるための規制で、これは自由な競争を損うものでかしいと何回も問題にされながら、まるで岩盤のようにびくともしないために付けられた用語らしい。
新たな参入や規制緩和を嫌う既得権益層としては  農業、医療、労働、教育、エネルギーなどの分野多いとのことで、この業界は族議員とタッグを組んで岩盤を強固なものとしてきこきたようです。
ウヤムヤになった加計学園問題も、元は「特区」が根っこにあると言われます。


2019.02.03(
) 節分・豆まき・恵方巻

ガチガチに凍りついた庭のつくばい

庭の片隅で「つくばい」がガチガチに凍りついています。夏はスズメなどの水浴び場。平爺が引っ越してくる前は、水道管も敷かれており、コトン・・コトンと風情な音が聞こえていたらしい。

◆大阪へ転勤移住したとき、はじめて「恵方巻」を知り、こんな文化があったのか~驚きました。おそらく関西方面出身者以外は、東日本では知る人は少なかったとお思います。

◆コトバンクによると、「恵方」とはその年の十干(じっかん)によって定められる最も良いとされる方角とか。
23日に定着している節分ですが、本来は「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の前日のことを「節分」と呼び、四季節の始まりの日であるため、その前日が・・・etc.

◆今は23日だけが節分となっているが、これは4季節の中で「立春」が最も重視されていたため。その昔、立春が新年の始まりで、立春前日の節分が大晦日だったとのこと。新年に向けて厄災をお祓いする行事として豆まきが始まり、関西ではそれが恵方巻だったということのようです。

恵方巻きは恵方を向いて丸かぶりすると厄払いができる・・・そう信じ、綿々と引き継がれてきた文化・・・イヤ、これって商魂? それとも庶民が飲み込まれた得体のしれない行事? 年始に神社詣でをするのと同じ?

理屈はどっちでもいいですが、大阪で初めて見た恵方巻には驚きましたが、あれから40年、商魂は東京を始め全国に伝播・席巻して、知らぬ者なき国民的行事になったようです。

◆というわけで2019年恵方巻きの日は23日。恵方=東北東に向かいグワッとかぶりつてください。

20019.02.02()  これもカルタの使い方

 
 介護施設での遊び美道具

近ごろ、カルタを知らない子もいるかも・・・。スマホにはかないませんよね。認知症介護施設へのボラ訪問で、正月とは関係なく、遊ぶ道具の一つとして用いるのがカルタ。やりかたが普通のカルタと少し違う平爺流です。

◆「犬も歩けば」だけ書いた紙(カード)を見て、下の言葉「棒にあたる」を答えてもらうという簡単な遊び。答えられる人、答えられない人、さまざまです。
上のことばが先だと、たいていの方がすかさず下の言葉を答えます。逆に下の句を見て上のことばを考えるのは意外にむずかしそうです。
「金棒」を見て上の句を言ってもらう。答えは「鬼に」ですがなかなか思い出せない。答えをいうと「ああ、そうだ・・・・」完全に忘れているわけではないようです。

一生懸命考えるという習慣を失った認知症の方々には、こんな遊びでも、それなりの頭の刺激になっていると思ってやっています。

◆失礼な言いかたですが、刺激もなく、利用者同士の会話もなく、職員さんも頻繁に声かけをする余裕もない。そうした環境では、こんなカルタ遊びでも少しは刺激の役にたつかと思い、小さな工夫を積み重ねながら、もうしばらくボラをつづけるつもりです。

◆認知症患者のために平爺が考えた遊びの中で、レベルがちょっと上になるかもしれないのが、あいうえお56文字を、それぞれ一字づつ小さなカードにします。カードを20枚ほどアトランダムに置き、2字以上の言葉を作ってください・・・これを一人づつ順繰りにやる遊びですが、平爺が思っていた以上に真剣に、かつ楽しそうにやっています。

平爺も立場が逆転する日が来ますが、腐りかけたこの頭で、工夫を怠らずにボラを続けられたらな~と思っています。

2019.02.01(
) 20年間に心からの感謝を
   ⦅長ったらしい日記ですみません⦆

不肖平爺が「がん人工肛門からの出発・日本三百名山単独踏破の軌跡 いつかまたフルマラソンを」のホームページを公開したのは199921日。ちょうど20年前の今日でした。紆余曲折しながらも今日まで続けとこられましたのもアクセスして下さる多くの方々のおかげです。こころからお礼申し上げます。(2年遅れて「山岳巡礼」をスタートとしたのも21日でした) 

win95が発売され、PCが市民の手に届き始めた時期に、このホームページを立ち上げました。マニュアルだけを頼りに、暗中模索・苦労苦労の連続。今にして思えばよく独力でやりとげたと自画自賛。思い出も数えきれないほどありますがその一部を


病院のベッドで作って下さったお守りの
マスコット 今でも大切にしています。


HP
公開から1年が過ぎた頃、Yahooがお薦めサイトとしてネット上に紹介して下さいました。一日1件のアクセスがあるかどうかというときに、Yahooがお薦めサイトとして取り上げて下さり、その当日は数千件に達してびっくり。PC普及率も今とは問題にならない時代、すごいことだったと思います。


特に人工肛門同憂者からのご相談や感謝などのメール。それが発車エンジンとなり、いつの間にか20年という歳月が流れた気がします。ちなみに平爺の座右の銘は「つづける」。

ほぼ毎日、ガンの苦痛と苦悩を訴える女性からのメール、それを全身で受け止めて平爺からのレス。そして「痛みがつらいです」がラストメーとなり、数日後、ご主人から亡くなられたとの報。遺言とのことで越後米と、病床で痛みに耐えながら手作りしたマスコット(写真)が送られてきました。今もお守りとして大切にしています。

娘さんから「母がどうしても会いたいと言っています。病院まで来てもらえないか」との電話。急いでかけつけました。絞り出すうな声で1時間ほどの会話。それから日を経ずしてご主人から他界の報、見送ってほしいとのことで葬儀に参加させていただきました。涙を隠すことができませんでした。

送っていただいた和歌同人歌集

和歌をたしなむ女性。同人誌(左の写真)の巻頭歌としてこの方の作品12首が選ばれたという歌集を送って下さいました。余命を意識した句に涙しました。没後、ご主人からのお手紙にはご主人の感謝と、奥さんの死の間際「私が死んだらお礼を言ってください」の伝言があったとのお手紙をいただきました。お会いしたたことはありませんでしたが、気持ちは通じていたと思います。手紙を読んで平爺も涙、涙でした。支えあう良きご夫婦だったことが、和歌からも推測されます。
  ・神のみぞ 知るという言葉の不確かさ 術後二度目の 夏を迎えぬ
  
・夫と来て 蛍を見たる帰り道 思い出話は をさな日のこと

四国のある医師からの手紙ーー奥さんが直腸がん、不安の中で平爺のHPを読んで元気をもらいました。自分が医師にもかかわらず、どんな医者より大きな励ましとなったと書かれていました。礼状とともにお心づかいの品が。どうして平爺の住所が分かったのかな~

週刊誌に掲載

ライオンズクラブの京都講演に招かれたときのこと。40分ほどの話を終ったとたん、何人かが演壇の前に集まり、「素晴らしかったですよ」と握手を求め、中には「私は医師ですが刺激を受けました」という意味の賛辞をいただいたことも大変ありがたく、役にたっているのだなあ・・・・実感しました。

人工肛門に関して、役にたつ情報も少なかった時代、どのくらいの数のメールを交わしたことか。レスに追われる毎日でしたが、多くの同憂の方々に感謝されたあのころを懐かしく思い出します。

ホームページが媒体となり、雑誌、新聞、文筆家などの取材もかなり受けました。活字となって今も残っています。ある大手新聞社系の週刊誌に、3週連続で取材掲載して下さったり、月刊誌「山と渓谷」や「ランナーズ」「山岳」などにも載せていただきました。またテレビのドキュメンタリー番組を撮らせてほしいとう申し出もいただきましたが、家族の出演協力もという要請に応えられずお断りしたこともあります。

ほかにも思い出のエピソードはたくさんありますが、自己宣伝になってしまいますのでここまでにします。

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