(登山のコーナー) (78)日本百名山登頂達成 |
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100山目を登る前にやっておくことが いよいよ残すは岩手県の早池峰山と、最後の山と決めた飯豊山である。 9月早々、盛岡まで夜行バスを使い99座目の早池峰山を登頂。後は彼岸3連休に予定している飯豊山縦走だけとなった。 そのとき私にはどうしてもやっておかなくてはなにらない大事なことがあった。 これまで登った百名山の中で妻が一緒に登ったのは 次の20座。
麓まで妻が一緒した山は数多くあるが、大半は私一人だけで登っていた。 振り返って見ると、私が始めて日本百名山の一つに登ったのは中学生のとき、遠足による蓼科山と言うことになる。 100座目の飯豊山に登る前に、一番目の蓼科山へ妻を連れて登っておこう。 脚力の違いも大きいし、これまで妻と登れる山は限られていた。せめて最初の蓼科山、そして最後の飯豊山を妻と登ることができたら。そう考えた。 手術から今日まで約5年間、これまでの妻の労に対する無言の私の気持ちのつもりだった。 9月9日、素晴らしい快晴に恵まれ、二人して蓼科山の山頂に立った。 岩塊の堆積する景観の中に30数年前の記憶が、わずかに思い起こされた。はじめのころ一つとして山名を指呼できなかったのに、360度見渡せる中部山岳の山の連なりを目にしながら、多くの山を「あれが○○岳、こっちは××山・・・」と妻に教えられるようになっていた。 ついに達成! 残すは飯豊連峰縦走。 次男が学校の試験と重なって行けなくなり、妻と長男3人の百座目の山行となった。 日本列島付近の洋上を迷走、1週間近くも気をもませていた台風も、出発前日になって疾風のように列島を駆け抜けていった。 前夜は福島県米沢市内のビジネスホテルに宿泊。翌未明に起きて洗腸の上登山口の飯豊温泉へ向かった。 コースは梶川尾根。1500メートルの標高差を稼いで門内岳手前の小屋へ。 日程は無人の山小屋2泊である。山はすでに秋色が濃かった。 自炊道具、寝袋、山上でのお祝い用の缶ビール半ダース、シチュウなどご馳走の材料等で荷が重い。私のザックは23キロを超え、これまでの山行中一番の重荷となった。 1泊目は予定通り門内小屋に泊まった。 翌日は御西岳から飯豊本峰を目指す。私だけ御西小屋に荷物をデポ、主稜を外れて連峰最高峰の大日岳を往復する。 荷物をデポした小屋へ戻って見ると、先に飯豊本峰を目指した妻と長男が、お汁粉を食べられるように用意してくれていた。 そしてついに飯豊本峰の頂に立った。 いま日本百名山登頂を達成することができた。(達成したという喜びより、挑戦が終ったという安堵感の方が大きかったような気がする) 癌との戦いとして3年前に取り組んだ目標であるが、全部登れるなどとは夢にも思っていなかった。第一今日まで命があること自身、私には思いもしないことであった。 日本百名山すべてを踏破出来たのだ。 妻と長男は、山頂から少し先の今夜宿泊予定にしていた飯豊山頂上小屋で待っていた。 3人で記念写真を撮るために山頂へ戻った。妻と長男は知らぬ間に百名山完登を祝す『おめでとう』の幕を作ってくれていた。 翌日の下山行程を考え、宿泊をこの先の切合小屋に変更する。 切合小屋では重いのをしんぼうして背負ってきたビールやご馳走を広げ、ささやかな祝宴の杯を上げたのである。満員の同宿の登山者も気づいて拍手が湧いた。 |
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記念に作成したテレホンカード。門内岳から飯豊本山を背にして撮影。 | 切合小屋での祝杯。妻、長男、私。大勢の宿泊者からお祝いの拍手が湧いた。 | |||||||||||||||||||||||||
癌との戦いとして、残る命との駆け比べのようにして登りつづけてきた日本百名山挑戦は終った。 1987年9月27日の妻との大菩薩嶺から、今日1990年9月23日のゴールインまで、満3年ちょうどであった。 もどる つづく |
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