癌、人工肛門のコーナー
(79)区切りの手記を綴る |
温泉
山登りをしていると、麓の登山口周辺にはけっこう温泉が多い。それも情緒豊かな鄙びた湯が目に付く。
日本百名山登頂の過程でも、せっかくの温泉を目の前にしていつも通り過ごしていた。
人工肛門で温泉へ入るのが恥ずかしかったのだ。
「人工肛門は恥ずかしいもの、隠しておきたいもの」という意識からは卒業していたつもりだったが、まだ克服しきれていない部分が残っていた。
パウチをつけたり、あるいはパットを貼っていたりすると「何だあれは」と言う目で見られそうで、そんな好奇な目に晒されるのが耐えられなかった。
しかし実際にはそんな目で見る人は一人もいない。自分自身の気持ちの問題だけだった。
山の帰りに始めて温泉へ入ったのは、登山をはじめて2年ほど経った夏、平ケ岳に登ったとき、南会津桧枝岐温泉だった。
一度経験すれば、後はもうどうということもなかった。下山後の温泉が楽しみの一つに加わった。
手記を綴る
手術から5年、日本百名山達成の喜びは日がたってじわじわと私を包んでいった。
落ち着いてきたある日のこと、私の命を燃やしたジョギングの日々、そして癌・人工肛門と共生しながら挑戦した日本百名山、その間に得られた人間としての条件とも言えるさまざまな貴重な教え、それらを風化させないうちに手記にまとめることを思い立った。
400字詰原稿用紙になおすと約280枚にもなったが、まだ書き足りない思いが残った。
ワープロをたたいて出来あがった手記は、自分で製本して3冊作りました。
昨年2月から始めたこのホームページは、実はこの手記を元にして綴ってきたものです。
手記のまえがきはこのホームページの冒頭に載せてあります(「まえがき」)
手記の「あとがき」
手記を綴り終えて、次のように「あとがき」を記しました。
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(あとがき)
あれからいつのまにか満5年が過ぎようとしている。早かったようでも
あるし、長かったようにも感じます。ただこの5年間は今までに体験し
たことのない新しいことがらを見、聞き、遭遇してきたことで、それまで
生きてきた50年間の2倍にも3倍にも相当する密度を持った期間で
あったことは確かです。 悩み、苦しみ、挫折感と戦いながら、見えな
かったものが見えるようになり、感じなかったものを感じられるように
なってきました。
あんな病に遭わずにいられたら良かったに決まっていますが、今その
ことを悔やんではいません。長い人生にそんなことがあってもいいよう
に思うのです。
(中略)
私が人工肛門となってから、排便処理を失敗したり、洗腸をしくじって
汚したり、そんなことは数知れない。家族は一度たりとも臭いとか汚い
と言ったことはない。そんなそぶりさえ見せたことがない。そうした言葉
や態度は我家から消えてしまったようです。
人工肛門者(オストミーと言います)が家族の中で汚い者扱いされたり、
肩身の狭い思いをしているケースも多いとも聞いています。
「お父さん
の前では臭いとか、汚いという言葉は絶対に口にしないようにしよう」
妻や子供たちは私の知らない所で、きっとそう約束し合ったのにちがい
ない。私は今でもそう信じている。そのやさしさこそが私を立ち直らせる
土台となってくれたのです。
(中略)
今も丸山ワクチンを周2回注射、月1回の通院はつづいています。まだ
病後が終わったとは言えません。
つい先日10キロロードレースに参加完走してきました。何年ぶりだった
でしょうか。山登りに加えて最近ジヨギングにも精出しています。
病院のベツドの上でマラソン仲間をはじめ、多くの方と「タイムは無理で
すが、いつかきっともう一度フルマラソンを完走します」と約束した課題が
残っているのです。
フルマラソンを完走したとき、名実ともに私の病後は終わるのだと思いま
す。
1992年1月3日記
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この手記は、文章は稚拙ですし、内容も私の人生の何分の一という一時期のことに過ぎませんが、これは私が私であったときの人生そのものの記録であり、決して忘れてはいけない思いが、ぎゅう詰めになっている手記だと思っています。
二人の息子が結婚するとき、手記をそれぞれ1冊づつ贈って、今手ともに1冊だけ残されています。
励まし、勇気を与えてくれた方々へ
日本百名山を終って、記念のテレホンカードを作り、病気以来お世話になった方々へ、次のようなお礼の挨拶状を送らせてもらった。
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(略)
早いもので私が癌の手術を受けましてから満5年を迎えようとしています。
転移の恐怖と人工肛門というハンデイの中で、絶望の淵に立つ私でしたが、家族はもちろんのこと多くの方々の励ましやお力添えを頂戴いたしまして、何とか社会復帰への道を順調にたどり、今では多少の不自由さ、制約はあるもののほとんど従前と変わりない生活を取り戻すことができました。
5年前、ベッドに横たわり、造られた人工肛門を怖くて見ることもできず、看護婦さんに叱られながらこの目でみたのは1週間もしてからでした。そのときのショックは言い表す言葉もありませんが、今はそんな日が懐かしくさえあります。
まだ100パーセント不安がないわけではありませんが、癌と言う病気も満5年が過ぎれば、一応「完治」と言われています。待ち遠しい5年でしたが、あとわずかでその日を迎えます。あらためて皆様に対し心からのお礼を申し上げます。
当初は失ったものの大きさばかりに気持ちを奪われ、還ることのないものへの恋々とした思いがつのっていましたが、日を経るにしたがい人間にとって大切なものが何であるか、それは心のうちにあることに気づきました。やさしさとか、人の痛みを感じることのできるこころとか。社会も企業もすべてが競争原理、効率優先で動く殺伐とした中で、人間として最も大事なものに気づかずにいたことこそ悔いることでした。
失ったものの代償として得たものは、残された人生において計り知れない大きな宝物になると思います。
私は今、病気以前よりはるかに満ち足りています。
実は久しぶりにお便りさせていただきましたのは、手術から1年半ほどしましてから日本百名山に挑戦しておりましたが、この度東北の飯豊連峰縦走をもって無事踏破できたそのご報告であります。
(略)
100山目の飯豊連峰に登る直前、今にして思えば中学生のときに登った第1山目にあたる蓼科山へ妻を伴って再登し、そして飯豊連峰も妻と長男が同行、ともに登頂を喜んでくれました。
手術後徐々に体力は回復していきましたが、自分の体を腫れ物に触るように大事に大事にするのは、反面生きる屍にも似た生き方に映り耐えられないことでした。
(略)
ふとしたきっかけで100名山を知り「これだ」と思いました。
最初の頃の山行記録の1節です。
梅雨、しとしとと雨が降りつづく。山深い武尊山(群馬・2158m)の山中を、歩いても歩いても人っ子一人会わない。去来する霧が視界を閉ざす。背を越す熊笹が覆い登山道が不明瞭。不安、心細い。ここでもう引き返そう。そんな弱音がかすめる
−中略−あのとき頑張って山頂を踏んできてよかった。体内にまだ巣食って次の標的を狙っているかもしれない癌巣に、強力ミサイルをまた一発食らわせたような勝利の快感があった
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「五十而知天命」 人ごとでない『死』を認識したのは50才直前のことでした。口に出しては言えなかった、死の恐怖に圧しつぶされる思いの日々は辛い日々でした。
(略)
一山一山踏破することが癌との戦いであるかのように、心配しうろたえる妻を尻目にして、憑かれたように登ってきました。正直なところ完登できるとは思ってもいませんでした。しゃにむな行動でしたが、目標を持ったことで前向きな気持ちが芽生え、立ち直るきっかけとなって行ったのでした。
(略)
あのとき、こうした喜びの日を迎えられるとは思ってもいませんでした。
今夢が実現しました。この喜び、嬉しさをお世話になった皆様にご報告せずにはいられない思いでごさいます。
50才にして「天命」と言うことを教えられました。今日一日が過ぎてまた持ち時間が1日減りました。私も、老いた人も若者も、富める人もそうでない人も、地位のある人もない人も・・・すべて平等に。
これから先も50にして思い起こさせてもらった大切なものを忘れずに、悔いなく一日一日を過ごして行きたいと思っています。
(以下略)
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思いもしない数々の祝電や、お手紙や、そして花束などが届けられました。
このとき私の命は世界中の誰よりも輝きに満ちていたのでした。
分不相応とも思えた事業は完遂して終りました。
記念塔
振りかえって見ると私の人生において、努力して成し遂げた記念塔と言うか大きな感激を三つ上げることができます、
○フルマラソンの初完走
○ジョギングを1000日休まず続けたこと
○日本百名山踏破
どれも私にとっては意味のある大きな出来事ですが、なかでも人生の舵取りを大きく変えていく過程と重なった日本百名山踏破は、ことさらに大きな意味を持つものとなりました。
山行の記録
癌に冒され、死を意識してから、最後の人生をどのよう生きたのか。その生きざまを克明に綴り、これを自分の「生きた証」にしよう。そんな思いで綴り始めた山行の記録(山走山歩記)は、この時点で15冊にまでなっていた。
手術後のいっとき、読み漁った癌などの闘病記にことごとく語られていたのは、終末における凄絶な患者の姿であり、いつかそれを私の最後の姿と重ねていた。
遠くない年月の先には、癌の転移、進行に次第に追いつめられ、凄絶な苦闘が繰り広げられる修羅場を迎える筈だった。こうした意識こそが、死と向かい合い、、死と背中合わせの日々と言うことだったのだ。
私のつづる生きた証の記録も、やがて死期を迎えて修羅場の様相に埋め尽くされて行く。「死にたくない」切にそう願いながら、一方では自らを悲劇のヒロインに仕立てて、壮絶に死んでゆく。それが最後まで生きがいを求めて頑張った「生きざま」にふさわしい、そんなあがきにも似た複雑な心境に置かれていたような気がする。
この記録の中には、もだえ苦しむような言葉はついに書かれることはなく、気がつけば5年の時が過ぎ、心身ともに完全燃焼を謳歌していた。
そして15冊となった山行記は、書棚の中でも大きな存在感を占め、それはまた私の確かな存在感に通じていた。
日本百名山踏破で ひと区切りつけた私でしたが、前記の「あとがき」にもあるように、フルマラソン完走の約束を果たさなければならいな。5年過ぎて「完治」と言うことになっていても、本当の意味での病後の終了を宣言するにはフルマラソンを完走することが必要だった。
いよいよ最後の課題に向かって走り出して行った。
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