(登山のコーナー)
(81)更なる山へ

日本百名山は終ったが
1990年(手術から5年目) 日本百名山を完登。

翌1991年、いよいよフルマラソンを意識してトレーニングに取り組むつもりでいたが、登山への気持ちも押さえがたく、山行頻度を減らしてトレーニングに時間を割くところまではいかなかった。

百名山は完登できた、これで目標に縛られるような登山は止めにして、山歩きを気楽に楽しむのだと自分に言い聞かせていたのに、今度はスキーを使っての登山(山スキー)にも関心が芽生え、衝動的に山スキー用具一式を買いそろえてしまった。
ゲレンデスキーは長年やっていて、スキーそのものが好きだったという理由もある。
八方尾根や双六岳への山スキーツアーに出向いたりして、登山とは違った新鮮な楽しみに囚われ、ますます山行に忙しくなっていった。
結果的に山へ入り込む頻度は、減るどころか以前にも増して繁くならざるを得なかった。

日本三百名山を知る
そんなおり、ある山岳雑誌で「日本300名山」の存在を知った。再び好奇心が湧き起こり、日本山岳会からリストを取り寄せた。
300という山の数は大変なものだった。 日本百名山はすべてその中に入っていたから、その他に200座と言うことだが、その200だけでも目を通しきれないほどの数であり、加えてほとんど聞いたこともない山ばかりが並んでいた。
山の名前がわかっただけで、あとのことは一切不明である。
一山一山、どこにある山かを探すだけでも大変な作業である。山岳雑誌の記事の様子では、三百名山をすべて踏破した人は、まだ数人もいないようだ。それだけ踏破が難しいということであろう。 きっと私には歯の立たないような山がいくつもあるに違いない。

山の情報が足りない
手元にかなり溜まった登山関連の書籍や情報誌の中から、役に立ちそうな情報を拾い出していった。しかしそれには限りがあった。時間をやりくりしては、書店へ出向いて対象の山の情報集めに精を出した。
こんなとき、どこかの山の会にでも入っていれば、有益な情報も入手しやすかっただろうが、何故か山岳会等に入る気は起きなかった。

情報補足のアンテナを鋭くしながら、一方三百名山を一つ一つ登りはじめた。
単純に毎月1つづつ登ったとしても200座を登り終るには200ケ月、10数年かかる勘定になる。私一人の力ですべて登れるかどうかは不明だが、これに取りかかれば、それは私の生涯通しての大事業になることは間違いない。
百名山のときのような安易さとはケタが違っていた。

300百名山を踏破できるかどうかの鍵の一つは、情報をどれだけ手に入れられるかと言うことだった。しかし踏破した人が数人程度という状況では、300名山に関する書籍などはどこを探しても見つからなかった。

奥多摩耐久山岳レース
東京奥多摩で『山岳耐久レース』がはじめて開かれ、考えることもなく申し込んでしまった。
公表70キロというが、小さく曲がりくねったりして、計測上の距離から割愛されてしまう部分を計算に入れれば実際に歩く距離は、100キロに相当するだろうと言われていた。登っては下り、登っては下りして幾つもピークを越えて行く、まさしく耐久レースだった。
制限時間は24時間で途中2個所の時間制限ポイントがある。自信はまったくなかった。

午前10時にスタート、歩きとおしてゴールインは翌朝6時9分。タイムは20時間9分であった。
400人余の参加者の中で168番目のゴール。字の通りそれは耐久そのものであり、体力の限界を十分に味わった。 辛かったが、これも私の一つの記念塔。このような楽しい思い出を作りながら、せっせと山歩きを重ねていた。


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