我が家の介護日記

〜最近の状況 No、2〜

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7月24日

先生からの話があった。「前にも言ったように、肺がぼろぼろで呼吸ができない状態になっていますし、体力もずいぶん落ちています。今年の夏を越すのは難しいでしょう。覚悟していてください。」と言うことだった。病室に戻り父を見ていると涙が出てきた。ただ、いつもの父のようにも見え、先生の話を思い浮かべ『そんなに悪いのかな?』と信じられないような気持ちもあった。

8月1日

父の目がだんだんうつろになっていくような気がした。なかなか熱が取れないため膜が張ってきているみたいだった。看護婦さんの話では「瞬きができないみたいで、目が乾燥しているようですね。それで膜が張ってしまうのでしょう。水分を少し与えたほうがいいみたい。」脱脂綿を蒸らして目にかけてやった。

8月9日

このごろ意識がはっきりしないようだ。呼びかけにもなかなか反応しなくなってしまった。どこを見ているのか?
空ろの目を見ているとかわいそうで仕方がない。昔の強い父がうそのようだ。

8月12日

今日から私の夏休みが始まる。と言ってもほとんど父のところとの往復になりそうだ。やはり調子が良くないみたいで、熱が収まらない。朝晩と解熱剤を使う毎日だった。

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8月16日

今日は、近くの従兄弟が様子を見にたずねてきてくれた。
午前中に病院に行き、父の前でいろいろと話をしてきた。父も聴いて笑っている様だった。
午後、田舎の叔母が見舞いに来てくれた。叔母を病院に連れて行きながら父のところへ行った。みんなが帰った後、母と話しながら父の様子を見ているといつもとなんかおかしい。呼吸をしていない!!呼吸と呼吸の間が3分ぐらい空いてしまう!!いつもはこんなことないのに!!
すぐに看護婦さんを呼んで吸引してもらったが、しかしそれでも直らない。
先生が飛んできてくれた。「とうとうその時が来たみたいですね。朝までもたないかのしれませんね。はっきり行って、やれるだけの事はしました。。後は見守ってあげるしかないですね。気を確かに持っていてください。」

8月17日

朝まで、変わりはなかった。呼吸もやはり空いてしまう。だんだんその空きが長くなっているような気がした。目が乾いて、幕がひどくなっているようだ。時をり母が「ちらっ!!」と言っては水を示したガーゼをめくっては目を見ている。熱は収まっているようだ。がんばってほしいと言う気持ちでいっぱいだった。
午後、大きな痙攣を起こした。はは、姉、そして私の口から『がんばれ、がんばれ!!』と大きな声が出てしまった。
眼球に少し出血を起こしたが、どうにか取り戻したようだ。その後1時間ぐらい置きに痙攣を起こしている。
こんな痙攣を起こしながら死んでほしくない!!なるべくなら苦しまずに行ってほしい!! そう祈るばかりだった。

8月18日

痙攣の少し落ち着き、体温、血圧も良いようだ。「少し落ち着いたようですね。寝ずに病院での看病の大変でしょうから、今日は家に帰ったほうがいいですよ。ご家族のほうが参ってしまいますから。何かあればすぐに連絡しますから。」と先生。
私の仕事の段取りだけでもやってこなければと思い、明日は仕事に行く段取りをした。

しかし、夜中に病院から連絡が入った。「血圧がまた下がっしまいました。危険な状態です。すぐ来られますか?」との事だった。
病院に着いて父の病室へ。とりあえず、血圧が下がっただけで落ち着いてはいるようだった。

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8月19日

痙攣もなく、穏やかな顔でいる。落ち着いているように見えた。『とりあえず仕事に行って来る。なるべく早く帰ってくるから。』
と言い、仕事に行った。しかし、(もし仕事に行っている間に!)と言う気持ちが頭から離れない。心配でならなかった。
しかし、その気持ちがあたってしまった。
父がそうさせたのか?不思議なもので、戦時中の不発弾が仕事場の地中の中から出てきた。その処理の為、午前中で仕事が中止になった。『ちょうど良かった。来れで早く帰れる。』そう思いながら帰る段取りをし、急いで車を走らせた。
途中、携帯電話が鳴った。「お父さんのぐわいが悪くなった。急いで帰ってきて。」妻からだった。『1時間ぐらいで帰れるよ。』
二度目の電話「間に合わなかった。今息を引き取った。ごめんね。」運転しながら、涙がこぼれた。
病院に着くと母と姉が父をさすっていた。
父の顔を見たとたん、涙たあふれ出た。静かに静かに息を引き取ったと言うことだった。苦しまなかったのがせめてもの救いだった。

「あんなに家に帰りたがっていたのだから、このまま連れていってベットに寝かしてあげようね。」姉が言う。先生にもそう話をしてそのままつれて帰りベットに寝かしてあげた。喜んでいるようにも見えた。そしてやっと楽になれたのだと思った。

後記


日記を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。本当に父は病気に対してがんばり、何度の危ないと言われながらの持ち直し、病院の先生もびっくりしていました。八年間、私達家族もそんな父のがんばりに答えるように介護してきました。父はそんな家族に感謝していたかどうかはわかりません。しかし力になっていたと私達家族は信じています。
1999年8月19日 午後2時22分 静かに、本当に静かに永い眠りにつきました。
父に感謝しながら、私の日記は終わらせていただきます。


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