セレニオは自分の無知を苦々しく思っていて、異国で学校教育を受けたミルカから算術や歴史を教わっていた。
…が、時折、セレニオは感じていた。
「(ミルカの知識は中途半端なところがあるし、計算も苦手なようだ。…3年かかる勉学を、2年目の途中で切り上げてしまったような。)」
実際、ミルカは三年制の中等教育の2年目の時に、募兵に応じてしまっていた。
ミルカの学業はそこで中断されたままで、遠征して来たこのトルクの地では、学ぼうとしても限度がある。
トルク有数の知識人テュニスの関心は農業に偏っていて、セレニオは狩人の育ちで、海の民の大人達は職業軍人。
ミルカの過ごしてきた「学生生活」は、彼らにとって遠い世界の話だった。
…そんなある日、勉強中のセレニオとミルカの元へ、来客があった。
「セレニオいる? 入るよー。」
そう言いながら、戸を開けて入って来たのは、敵方の技師ロニアだった。
「あ…ごめん、邪魔しちゃった? 帰るね。」
「いや、ちょうど良かった。…ミルカ、ルミノ隊長の手伝いに入ってくれ。私はロニアと少し出てくる。」
そう答えてセレニオは席から立ち、脇に置いてあった銅剣の鞘を手に取った。
「石工ができると言っている人を見つけた。今から会いに行くか?」
そう言いながら、セレニオは銅剣を鞘ごと腰帯に差し、部屋を出て行った。
そのセレニオをロニアが追い…そのロニアの背を、ミルカは嫌悪の目で見送った。
敵ではあっても、ロニアは「共通の利益」の名目で、この王都に水道敷設を進めている。
そのロニアを、トルク方のセレニオは危険視しながらも、作業員の取り締まりなどで協力してきた。
お互い、相手は不可解な存在で、興味はいくらでも湧いた。
「ねー、セレニオー、今日もあの娘と話させてくれないじゃん?」
「当たり前だ。巻き込まれるのは、私一人で十分だ。」
二人はそうしたことを話しながら、石工の家に向かった。
晩秋の風は、もう昼でも冷たい。
そして、二人が面会した石工職人は戦争前からの王都の住人で、古くから家に伝わっていた技術を受け継いでいた。
「セレニオ様、そちらが、『石畳』をご所望のお人で?」
「お引き合わせします。こちらはロニア殿。このトルクが遠い昔に忘れたものを、今日のように知っている不思議な人です。」
そう紹介されたロニアは、描いて来た図を見せながら、水路について説明した。
ロニアの語る水道や水路は、トルクの地でも一般的な農業用水より遥かに密なもので、「下水」の概念さえ含んでいた。
当初は「川の水を引くわけだな?」と言っていたセレニオも、最近では「水道」に対する認識を変えつつある。
石工職人は顎に手を当てて考え込み、「とんでもない量の石が必要になりますな。」と答えた。
すると、セレニオが「石を運ぶ人数は手配しますので、山まで一緒に石を見に来てもらえませんか?」と頼み込んだ。
ロニアはうなずいて、セレニオに袋を手渡した。
「じゃあ、セレニオ、石の手配は任せたよ。その中には銀貨で30枚入ってるから、それで人を集めて。…ああ、あと、『給料の前貸し』は、絶対に駄目だから。でかい仕事だと、『前金』ってのもあるけど、原則は『仕事をしないと、給料もなし』。そこはセレニオらしい厳しさを期待するね。」
「約束する。工事のほうは任せた。」
二人は手を打ち合わせ、それぞれの分担を果たしに向かった。
夕方頃には、ロニアは新規の水路予定地に杭を打ち込み終え、セレニオも使えそうな石を荷車に積んで戻って来た。
二人とも、相手を「(こいつ、仕事が速いな。)」と思った。
そして、セレニオは報告しつつも提案した。
「銀貨は半分ほど残してあるが、これで、ご老人の技を受け継ぐ人を募りたい。ご老人から技を学んで、身についた者にだけ支払いをする。」
「いいけど、セレニオ…それっぽっちじゃ、足りないよ。『技術料』って言葉がある。期限は7日間で。技術を身につけた人には100枚。身につかなくても3枚。お師匠になる職人さんには成功報酬で500枚。技術って言うのは、それくらい価値があるんだよ。」
ロニアに説かれたように、セレニオの考えは即物的で、技術さえも「安価な道具」とみなす傾向があった。
当のセレニオは、ロニアを「(甘いことを言う。)」と思いはしたものの、理解はできた。
トルクの地では、技術は安く見積もられて人が離れ、時代を経るごとに、忘れ去られて行った。
そして、人が理念よりも利益で動くことの実例は、ロニアがいつも見せてくれている。
「そこまでの支払いを用意しないと、人は動かないか。」
「本当は、セレニオのほうが正しいのかもしれない。出費を抑えるのも、組織を運営する手段の一つだからね。」
そうした話をしながら、二人は石工の家を後にした。
セレニオが王宮内の自室に戻ると、迎えた副官のミルカはセレニオの身体に鼻を近づけて、匂いをかいだ。
その行為には、セレニオも当惑した。
「待て、ミルカ。『水道が完成したら、毎日のように水浴びができるようになる』とは聞いているが、まだ先の話だ。それに…その行動は、はしたない。」
「はしたないのは、ご主人様のほうです! あの女の『色仕掛け』の罠に引っかかってないか、あたしは副官として、確かめなきゃいけないんですからね! まさか、あの女と交尾をして、大事な情報とか喋ってないでしょうね?」
ミルカはあえて、無学なセレニオでも理解できる言葉を選んだ。
あまりに露骨な内容に、セレニオは卒倒しかけた。
「そうした事実は、存在しない…。そもそも、私がなぜに、女性に不埒な真似を…?」
「でも、ご主人様の『身体』が正常に反応するのは、意識ない時に、いじって確認済みですから。」
そうした話を聞かされていて、セレニオに途方もない疲れが押し寄せてきた。
翌日、セレニオはミルカを敵方の技師ロニアに引き合わせた。
ちなみに、ミルカの学友にロニアの従妹がいたと後に判明するが、この時、それを知る者は一人もいなかった。
「本当に危険なのは、敵ではなく、『知っているつもりで、本当は知らない』ことだと考えなおした。…技術や知識だけでなく、『して良いことと悪いことの区別』を私達は学ぶ必要があるのではないか。」
「セレニオ…何かあった?」
セレニオがどこか虚ろな目をしていたのを、ロニアは心配した。
実際、セレニオは今朝から高熱を発していて、気を抜くと倒れそうだった。
「あなた達の国には『学校』と言うものがあると聞いている。そうしたものが、このトルクの地にも欲しい。…生き方を人に指図されるなど、お断りだと思っていたが、先人の意見を聞いた上で考えることも大事なのではと思えてきた。」
そう言って、セレニオは無理して口元に笑みを浮かべて見せた。
平常を装っていても、その額には、汗がにじみ始めている。
「ミルカ、話の続きは任せた。あなたなら、私より見えているはずだ。…今日は、ルミノ隊長を手伝いに行く。話し合いの結果は、後で聞く。」
そう言い残したセレニオは、自分が倒れる姿をミルカ達に見られる前に、足のふらつきを気力で抑えて立ち去ろうとした。
…が、そのセレニオをロニアは追いかけて、倒れる寸前に抱き止めていた。