ミルカは後悔した。
なぜあの時、主セレニオの洋行を認めてしまったのか。
ミルカはロニアが嫌いだ。
アネス王子からは、ミルカのほうが嫌われている。
そのミルカがなぜ、ロニアとアネスの仲裁をしなくてはならないのだろう?
「ロニアさんって、本当は男の人なんでしょう? 最初は『男みたいな女』って思ってましたが、セレニオも最初の頃しか興味なかったようですし、ああ、やっぱり男の人だったんだなって。」
「いえいえ、アネス様こそ男装がお似合いですわ。どこからどう見ても、殿方にしか見えませんもの。おおーほっほっほっほっほ!」
そのロニアからの返答に、アネスは剣を相手の首へ横一文字に抜きつけ、寸前で手首を返した。
それに対し、ロニアも同時に剣を抜き上げ、鞘離れの瞬間にアネスの剣の平を受け止めていた。
「先に手ぇ出してきたの、そっちだから、殺っちゃっていいよね?」
「あれ、勝つつもり? 面白いよね。最後はセレニオに捨てられたけど。」
「いやー、最初っから相手にされてなかったアネス様には、言われたくないなー。」
「だってー、僕、誰かさんみたいに色じかけとか、してないしー。」
この二人、相性は最悪である。
それにしても、先日までロニアを手伝っていたセレニオの洋行が決まった時、そのセレニオを引き継いでロニアを手伝う、と申し出たのはアネス本人だったはず。
それがなぜ、アネスの側からロニアに喧嘩を売っているだろうか。
とりあえず、ミルカは二人の間に割って入った。
「セレニオなら、そうする」と判断したミルカの、決死の行動である。
すると、両者とも意外と理性的に、後ろに下がって剣を鞘に納めた。
「では、僕は市民に聞き取りをして、どの家に水を引くか確認してくるけれど、手分けしても4日はかかると思います。とりあえず、昼にここで落ち合いましょう。」
「あいよ。じゃあ、こっちは班を3つ組んで、排水処理場と浴場の工事を続けて、僕の班は資材の搬入ってことで。…上水道と下水溝の工事は、いったん止めておきます。ここからは、水道も使う人に合せないと。…あと、ミルカちゃん。午前は僕に、午後はアネス様についてもらっていいかな? で、改善点があったら、遠慮なく言って。」
幸か不幸か、アネスもロニアも、仕事に関しては有能で理性的だった。
その理性が人格に活かされないのが、この二人の不思議なところである。
夜が来るのが待ち遠しかった。
正確には、仕事から解放されるのが待ち遠しかった。
疲れ切ったミルカは、最近になって王都にできた喫茶店に入った。
キノコなどの具材を入れた卵焼きと、サトウキビの入ったお茶が運ばれてくる。
主のセレニオが出張している今、この時間だけがミルカの楽しみになっていた。
「私は孤独だ。」
うっかり、ミルカは呟いてしまった。
従軍中も、ここまで孤独感に苛まれることはなかった。
それくらい、最近のミルカにとって、主セレニオと一緒にいるのが普通となってしまっていた。
普段は「まー、仕事上の付き合いだから」と言えたが、いなくなられると、やはり寂しくはあった。
「ところで、テュニス様、ルミノ隊を見かけてませんけど?」
「ああ、ルミノ君達なら、セレニオ君の村の手伝いに行きましたよ。」
店長との何気ない会話で、ミルカは悟った。
今の王都に、ミルカが仲間と呼べる者が一人も残っていない。
ミルカが「もう、何も考えたくない」と思っていると、騒々しい二人組が、店に入って来た。
「だーかーらー! 税制が必要なんだ、って言ってるんです。」
「声を荒げなくても、聞こえるよ。正論なのも理解できる。けれどね、それは民衆に収入があっての話だから。」
ロニアとアネスであった。
日中の斬り合いに飽き足らず、この静かな時間まで邪魔をしようというのか。
「あ、ミルカちゃんだ。隣、いい?」
「おじい様、僕達にもミルカ君と同じのを、お願いします。」
二人はミルカを挟む形で、席に着いた。
ミルカは内心では「放っておいてください」と言いたかったが、立場上、この二人に対しては愛想よくする職務がある。
それに加えて、この二人を刺激するのが得策ではないことを、ミルカは先ほど学んだ。
ミルカは席から立って、アネスとロニアに対して、順々に会釈した。
一方、アネスとロニアはお互いの顔を見合わせ、ミルカが緊張している理由に察しをつけた。
「ロニア君、僕は君が嫌いだ。」
「そりゃどうも。僕もアネス様を、すっごく嫌な奴だと思ってます。」
この二人、朝に続いて、また騒動か…と思って、ミルカは目の前が真っ暗になった。
しかし、アネスとロニアは平然と会話を続けた。
「全ては『セレニオが戻ってから』。それまでは、ミルカ君を怖がらせるのも禁止。」
「いきなり打ち込まれたり、言いたい事は山ほどありますけど。同感です。」
両陣営を代表する頭脳だけあって、二人は穏便に話をまとめた。
…が、それで終わらないのも、ロニアとアネスである。
「ミルカちゃん、今日から僕のこと、『お姉ちゃん』って呼んでいいからね?」
「いや、ミルカ君。共通の敵からセレニオを守るため、僕達が手を組む時が来た。今日から、僕達は心の姉妹だ。」
この二人は翌日からも、仕事では協力し合うのに、細々としたことでは争い続けた。
その度に、仲裁していたミルカの疲労は着実に蓄積した。
ただ、わずかな救いになったのは、ロニアとアネスの争いには陰湿なところはなく、正面から感情をぶつけ合っていたことだった。
その頃、セレニオは洋上にあった。
航海士役のベルヴェータが観測器具を動かしながら、航法について説明する。
「陸を目にしたまま船を進める沿岸航法とか、島を目印にした航法は確かに着実です。しかし、これからの航海は天測航法。太陽が一番高く上がる頃を見計らって、光の入射角を測定して、そこから現在地を割り出すわけです。」
そう語るベルヴェータも、実は天体観測にそれほど習熟しているわけではないが、海軍施設で正規の教育を受けてはいた。
一方のセレニオは、天体観測が得意ではなく、ベルヴェータから説明を受けている時にも、別のことを考えていた。
そして、ベルヴェータの手ほどきで太陽光の入射角を測り終えた後、セレニオはベルヴェータに次の指示を出した。
「実は、乗り組ませているゼノが裁縫の職人だ。現地に着くまでに、私の服を仕立ててもらおうかと。」
セレニオが語るには、今回トルクの地から売り込む商品は木綿や羊毛で、実際に布にして衣服に仕立てて、着て見せたほうが宣伝になる…との話だった。
「ロニアがそうしていた。ロニアの場合は、しなやかさと細さを強調した服を基本に、ひらひらした飾りをつけたものや、金具を縫い付けたものを日替わりで羽織っていた。日によっては、基本そのものをトルクや海の民の伝統衣装にしてくることもあった。…あれは、ロニアにとって『武器』だった。着飾ることで相手に良い印象を与え、防寒性と運動性を実証する宣伝にもなる。」
そのセレニオの話を聞き、ベルヴェータはある一点が気になって、尋ねた。
「そのロニアさんに、セレニオ様はどんな印象を持たれました?」
その問いに、セレニオは頷いた。
セレニオ自身、なぜ自分がロニアと行動を共にすることが多いのかを、普段から考えていた。
「『あこがれ』なのだと思う。着飾った姿は美しく、豊富な知識は羨ましく、仕事を進める様は格好良く…そのロニアを通して見る世界に、私は魅せられていた。」
それがセレニオなりの結論だった。
異なった趣の返答を期待していたベルヴェータも、納得してしまった。
その夜、王宮の自室に引き上げてきたミルカは、人形に話しかけた。
「ねえ、アエラ、聞いてくれる? 今日はアネス様がやらかして、テュニス様に叱られてたんだよ? いい気味だよね。…でも、なんでロニアさんが、かばいに入ったのかな。」
そう話しながら、ミルカは人形を胸に抱き、隣の部屋に向かった。
主セレニオの使っていた部屋だが、今は無人だ。
ミルカは机の上の魚油ランプを点け、セレニオの書き残した紙束を開いた。
文書と呼ぶには乱文で、絵が添えられていた。
それでも、ミルカはこのセレニオの絵や文字を見るのが好きだった。
落書き程度の画力ではあったが、セレニオが何を描いたのかが、伝わってくる。
ロニアの衣装であったり、テュニスの料理であったり、作物につく虫であったり…セレニオが見てきたもの。
その中で、特にミルカが注目したのは、やはり自分の描かれた絵だった。
以前に贈られた服を着たミルカの姿も描いてあって、「『かわいい』という言葉が無礼にならないか、調べる」と書き添えてあった。
そうした一枚一枚をめくりながら、ミルカは没頭した。
今は忘れておきたい事がある。
テュニスの農耕事業やロニアの水道敷設は軌道に乗り、今では多くの者が参加していて、「現場監督」が務まる者も現れてきている。
先駆者だったセレニオよりも才能に恵まれている者も多く、今後のトルクはセレニオを必要としない。
副官のミルカがセレニオを待っていても、この土地はもう、セレニオが帰る場所ではないもかもしれない。
その現実から、ミルカは目を背けていたかった。