(登山のコーナー) (83)日本三百名山踏破達成 |
無上のよろこび、山歩き 日本百名山踏破、次にフルマラソン完走、そして日本300名山への挑戦。 これが、かつて1年先の命の保証もなかった癌患者、加えて人工肛門というハンデイを背負った人間のすることか。 そんな風に言われてしまいそうです。 約束のフルマラソン完走を果たすために、登山とマラソントレーニングを曲がりなりにも両立させてきました。 そのフルマラソンを何とか完走してからは、トレーニングの必要もなくなり、軽いジョギング程度だけで、時間はもっぱら登山優先の月日が続きます。 300名山に限らず、山を歩くというだけで無上の幸せを感じる日々でした。 健脚だけが頼りの300名山 登山に関しては、まるっきりの素人の状態で、日本百名山に単独で取り組んだのでしたが、3年ほどして百名山を完登する頃には、見よう見まね、経験の積み重ねでかなりいろいろなことが分かってきました。 何よりの強みは脚力が人並み以上にあったということだと思います。 山を歩いていて、他の登山者に追い越されたとうことはほとんどありません。決して負けまいと無理して歩いているわけではありません。私にはそれが少しも無理のないペースであって、途中の眺望も十分楽しめますし、写真も撮ります、花々の観賞もできます。 この脚力が300名山を順調に踏破させていってくれました。 300名山の年度別登頂数 1991年−35座 1992年−35座 1993年−18座 1994年−16座 1995年−13座 1996年− 7座 1997年−26座 1998年−23座 毎月平均一座づつという見込みを大きく上回るペースでした。 1997年、東京から奈良へ転居してからは、主に西日本に残されていた山々を精力的に登って行きました。 単独行と自力登山 300名山を目標として考えはじめたころ、完登できるとしても10数年はかかるだろうと考えていました。 対象の山の情報も逐次蓄積されてはいきましたが、依然として、どのように登ればいいのかわからない山がいくつも残っています。 日本300名山にとりかかってからどのくらい経ってからでしょうか、300名山を踏破した人の体験が書店に出ました。300名山に関する本を目にしたのはこれが始めてです。 しめたと思い早速目を通して見ましたが、私の求めているような情報はほとんどありません。またこの著者は、ガイドや地元の山に関係した人などを、金に糸目をつけないような形で支援してもらいながら登頂している様子もうかがえます。「連れて行ってもらった」という印象をとても強く感じました。 山の登りかたは100人100様、それはそれで良いのですが「自力」を掲げる私の山登りスタイルとは大きく違っていて、ほとんど参考になるところはありません。 自分の力の及ぶところは自力で登るのが私の登りかたでした。そのための苦労は厭わないことにしました。 (自力について ) 自力を貫くためにはいろいろな苦労がありました。 登山道がない山もいくつかあります。これをどう登るかというのが大きな課題でした。 情報集め、山行プラン、山行体力等、勤めの合間に一人でやるのは骨がおれます。 道のない山は、薮が雪の下に隠れているときなら登頂が可能と言うことが分かりました。いわゆる残雪期登山です。雪上での幕営ははじめての体験でした。時期としてはゴールデンウイークのころですが、誰もいない2000メートル近い稜線の雪上、テントでの泊りは大きな不安でした。 予行演習のために真冬の2月、愛鷹連峰の山頂でただ一人幕営したこともあります。 仲間と登れば安全な上に楽です。何も意地で単独行をしているわけではありませんが、百名山も単独行で通してきました。300名山も単独行で踏破すれば、苦労をした分それだけ達成感、満足感が大きいような気もしていたのです。 (単独行で歩くようになったわけはココをクリック) 道草、信州百名山 年齢が嵩んでから体力を要する山ばかり残っていてはいけないと思い、そうした山をリストアップしてなるべく早めに登るよう心がけました。 難しい課題も尻込みせずに立ち向かえば、道は自ずから開け、一つ一つクリアして行けました。 日本300名山を目指している途中、書店で「信州百名山」というハードカバーの立派な本を発見。私の故郷の山です。一も二もなく購入してしまいました。 そしてこれがまた目標になってしまったのです。 信州なら東京から比較的近いと思ったのに、辺ぴな山奥は東北あたりの山へ行くのと大差ありません。 1996年、生まれ故郷の山、中央アルプス「経ケ岳」登頂で信州百名山を完登しました。 このときの様子が、地元の信濃毎日新聞に大きく写真入りで記事になったのも、嬉しい思い出です。 信州は山国、たった一つの県だけでその100山はいずれもそうそうたる顔ぶれです。中にはよほどの山好きでも知らないような山でありながら、実は素晴らしい「隠れた名山」とも言うべきものがいくつかありました。その最右翼は登山道のない堂津岳でした。残雪登山となりますが、日本百名山に入る資格を十分に備えていると思いました。 そして300座目の頂へ 日本百名山完登の後で取り組んだ300名山ですが、当初の見込みは「早くて10数年」でした。 さまざまな体験や感動を味わいながら、その半分の歳月、8年目にあたる1998年12月、比叡山登頂で299座まで漕ぎ着けました。 残るは我が家近くの奈良県金剛山です。 朝飯前に登れるような簡単な山を、あえて最後まで登らずに1年間も残しておいた理由は、初孫の誕生が予定されていたため、この孫と登れれば良い記念になるという思いがありました。 しかしそんな思いとは違って、ミレニアムと騒がれた2000年の元旦に登頂しました。 何かあっけない幕切れでした。 もっと厳粛に、思い出深い演出もあっても良かったかも知れませんが、元旦の未明にたった一人で登山口まで自動車を走らせ、敢えて単独行で千早コースを山頂目指しました。 それが私らしい最後の飾りか方だったのです。 山頂一帯は神社の境内となっていて、近くまでケーブルも来ています。観光化が進み、既に登山対象の山とは言い難い金剛山でした。どうしてこんな山を大事な300座目に選らんでしまったのか、いくらかの後悔を感じながら山頂を踏みました。 幕切れは少し不本意でしたが、300名山に挑戦したおかげで、全国各地の素晴らしい多くの山に接することも出来ましたし、観光客の訪れることもない辺ぴな山里などに、古き良き日本を彷彿させ、また子供の頃の郷愁も味わうことの出来る場面ともたくさん出会えました。 山だけではない素晴らしい体験の年月でした。 1994年ころ、日本300名山完登者は10人ほどと言われましたが、その後これに挑戦する人も増えたようです。現在は何人くらいになっているでしょうか。 (日本300名山完登の記もあわせてご覧ください) もどる |
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