トップへ プロフィールへ パーキンソンとは 難病とは 最近の状況
1992年
手のしびれ、首の痛みを訴える。近所の病院へ行き、頚椎のゆがみ、ヘル二アではないかと診断、治療に入る。
1993年春
治療を続けるが効果なし。3月ごろから、ろれつが回らなくなった。風邪気味だと言う本人の言葉に心配し、総合病院に行き、内科とついでに首を見てもらうために整形外科に掛かる。内科が時間がかかるため整形に先に見てもらう。
診察した医師の話では、「手のしびれ、首の痛みより言葉がおかしいのが気にかかる。もしかしたら脳に異常があるのかもしれない。すぐに脳外科か神経内科で見てもらったほうが良い。整形はその後だ。」その言葉に驚き、内科の診察予約もしてあると言ったら、「神経内科の医師に紹介状を書くからすぐに行きなさい」と紹介状を書いてくれた。
紹介状をもち内科へ。診断後、入院の手続きをして家に帰る。
ベッドが空くまで連絡待ち。その間無表情で立ちすくむようなしぐさが目だつ。言葉がだんだん聞きづらくなる。連絡を待ちきれず病院へ電話。その日に入院。次の日から検査の毎日。尿のでも良くない。泌尿器化へ行ったとき立会い、先生の言葉から始めて知った・・・「パーキンソンか」・・・
パーキンソン・・・聞いたことはあるがどんな病気なんだろう。痴呆症などのボケで聞いたことがあるが、まさか?
その後本屋に行き、病気の本をめくる。『あった。パーキンソン、これだ!』ドーパミンが少なくなり筋肉への神経伝達の伝わりが悪くなる・・・神経の病気、なぜ起こるのか分からない難病指定の病気。家に帰り家族に報告する。
後日、内科の先生から詳しく説明があった。やはり難病指定の病気、パーキンソン病だと言う。「治す薬はない、いろいろな治療法が試されているが、100%のものは無い。何年かのち、寝たきりになるだろう。ただ、この病気が直接の原因で死ぬことは無い。」と先生。
死ぬことは無いとは聞いたが、まさかそんな病気になるとは!!
「ただ、治す薬は無いけど、進行はとめられる。ドーパミンを外から取れば良いのだから。」少しほっとする。しかしこれも何年後には、効かなくなる。副作用のせいだと言う。
1993年夏
ドーパミンを飲み始めてから、見た目は病気だと分からなくなった。検査も終わり、今日退院となった。しかし、「個人個人の差があるが、人によっては子のまま薬が効いて長生きでき、寝たきりにならない人もいる。」と言った先生の言葉に期待しながらも、家族みんなで心配が隠せないでいる。
1993年9月
仕事を今日から再開する。やはり車の運転をしていると、判断が少し鈍いようだ。仕事先の会社からも『運転をやめて倉庫の配送、出荷のほうをやらないか?』と言われ、倉庫番をまかされた。
やはり、体の動きが悪いのだろう。今日は、かなづちで指をたたいてきた。かなり腫れている。このごろ足や手をぶつけて来るのが多くなった。そのたびに心配でしょうがない。仕事を止めさせたほうが良いのではないかと、家族で話し合う。しかし、病院の先生いわく「動けるうちは、仕事でもなんでもやらせてあげたほうが良い。なるべく危なくない仕事なら、体を動かすためにも、続けさせてあげましょう。」と。見守るしかないと家族で相談し、仕事を続けさせよう。
1993年10月
やはり車の運転を止めさせた。仕事場まで車で通勤していたが、見ていると少し判断が鈍いようだ。ブレーキの遅れが少し分かる。
父は、『大丈夫だ。ちゃんと運転できる。車に乗っていたほうが、体の動きが良い』と言い張るが、もし事故を起こしたら大変なことになる。と説得し、やめさせた。
1994年2月
何と、私が風邪をこじらせて入院してしまった。仕事中、体調が悪く、腹が痛いと思っていたら、脱水症状で筋肉が硬直してしまって運転できなくなってしまった。ちょうど帰り道で、父が横に乗っていたのため、その場で
救急車を呼んでもらい、そのまま入院。何とも情けないものだ。
ちょうど10日間で退院した。
1994年7月
仕事場での父の動きを見ていると、体の動きが鈍いのが分かる様になった。「そろそろ引退したほうが良いのではないか」と会社のほうから言われ、今月一杯で引退することになった。父を見ているとさびしさが分かる。仕事が生きがいのような父なので残念な気持ちが良く分かる。
『まだまだできるのに!!』と父の独り言。
1994年8月
今日は引退の日。家に帰ると、母と私の子供たちが花を持ち、玄関で出迎える。『今までありがとう。お疲れさまでした。』と母の声に、涙ぐみながら 『ありがとう』。そんな父の姿を見ているとこちらまで涙が浮かんだ。
ご馳走を食べながらも、明日からの父の体調も気にかかる。